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読書感想文『心は胸のふくらみの中』(菊竹胡乃美,書肆侃侃房,2023)
傷を受けても耐える人
犬が苦手なのかなあと思った。
私は長いこと犬が嫌いだった(苦手ではなく嫌いだった)。最近は好きだと思えることが多くなってきたし、わざわざ嫌いとは思わなくなってきたけれども、犬の散歩をしている人は、歩道をすれ違う人が犬が苦手だったらどうするんだろう、相手に不快や恐怖を強いてまで自分の都合を優先するのか、まるで犬を飼っているからそれが当然の権利という顔をして、そうするのか。という意地悪なことを考えてしまう。以前、犬が嫌いな登場人物が、犬の散歩に苦言を呈していた、というか心中で毒づいていた一節があり(どの小説か失念してしまった)、それに影響されていると思う。
菊竹さんの以下の短歌を読んで、そんなことが思われた。
ゴールデンレトリバーの盲導犬わたしが我慢すればいいだけ
この歌がどのような意図でもって作られたのか私にはわからないけれど、たとえば、犬が苦手で、そのなかでも特にゴールデンレトリバーが苦手で(なにか苦手、あるいはトラウマとならざるを得ない出来事があって)、その犬がとても近くにいて、でもその犬は盲導犬という「圧倒的に正しい存在」で、わたしが我慢すればいいだけ、そう、ここは社会的には「我慢しなければいけない」場面。だから私が傷を受けているとしても我慢する、しかし、そこには自分への非ケア、とでも言うべき、自己虐待のような感情で耐えている姿がある。わたしが我慢すればこの場はすべて丸くおさまる、わたしが我慢すればみんなは不快な思いをしない、わたしが我慢すれば、世界は正しいまま、事もなく進み続ける。
抑圧され続けてきた人間の思考の型。目の前にある圧倒的な(絶対的ではない)正しさの前に、自分は粛々と傷を引き受ける。自分の心よりも、他人の世界を守るほうを選んだ、もしくは屈した人間は、そうなる。抵抗や反抗をしても意味がない、もしくはそうするともっとひどい結果になると知っている人間は、そうなる。
この歌集では、さまざまな傷が具体性をもって、まさに目の前にせまるように歌われている。でも、この歌の主人公(短歌の理論で言えばそれは菊竹さんということになるのだろうか)は、その傷を受け入れている、というか、自分を守ることができず、ひたすらに傷ついて、そうしながらその傷をじっくり、冷静に見つめている。
さまざまな傷、章から受けた印象の順にその傷の内訳を書き出してみる。
・女であること、結婚という制度、セクハラ、生理、うつ
・男との関係、セックス、恋人
・生まれること、性別違和
・暴力、モラハラ、レイプ、子供の性被害、加害者の存在
・容姿、コンプレックス、ルッキズム
・労働、貧困
・犯罪、犬
あくまで私が歌から連想した単語であって、そのものをそう歌っていると解釈したわけではないのだが、菊竹さんの歌からは、無味乾燥な単語に変換すればこのような物事が根底にあるのではないかと受け取った。
もし、これらがすべて菊竹さんの受けた傷なのだとしたら、またはそうでなくても、これだけの傷を列挙して向き合って歌にすることは、とても心の痛い営みだったのではないだろうかと、まず心配の気持ちがわく。それでもこれらを絶対に歌にしなければならない理由が菊竹さんにあって、これらの整然とした、美しい短歌のすべてが生まれてしまったんだ。
悲鳴というには、静かすぎる。慟哭というには、烈しすぎる。
ただこのような傷があり、それをとにかくbearするために、これらの美しい情景が切り取られている。そんなふうに感じる歌が多かった。
短歌としてかっこいい/その中身
私は、どちらというと、このような生々しささえ感じる短歌というのは読まないほうで、それでもこの歌集に惹かれたのは、とにかく「技術が高い」「技巧的に洗練されている」と感じ、自分もこういう短歌を作れるようになりたい、という憧れの気持ちからだった。内容は一旦おくとして、とにかく歌そのもののかっこよさが、私に1650円を払わせた。
冷や麦をゆでる八月平和とはわたしでいること家系図途絶えて
たとえばこの歌は、冷や麦をゆでるという日常の光景から入り、ということは夏で、八月であることが示され、流れるように、日本の八月とはつまり平和の季節であり、では、わたしにとっての平和とは何か。それはわたしがわたしでいること。わたしがわたしでいると何が起こるのか、それは家系図が途絶えるということ。つまり、私は子を成さない個体であるということ。
「わたし」に子供が生まれなければ家系図が途絶える。
戦争で亡くなった人たちの家系図もそこで途絶えているはずで、平和を考える八月に、平和を為そうと思ったら、戦争と同じ結果を、種の繁栄という点では世界にもたらしている「わたし」。それでも、それがわたしの「平和」なのだ、というどうしようもない事実があり、世界の正しさに反するとしても真実の「平和」を希求するならばそうなる。家系図は途絶える。この平和な世に、平和であるが故に、家系図は途絶える。
解釈というか作者の意図は全く違うところにあるかもしれないが、たとえばそういう話だとして、あまりにも切れ目なく自然な視点の流され方(冷や麦という具体から平和という抽象へ)と「途絶える」という絶望できっぱりと言い切る歌が私には光って見える。しかも、技巧を凝らしてこの歌になったというよりは、ただ冷や麦をゆでていたら「ああ家系図が途絶えるな」と思考がなんとなく進んだ、という感じで、あくまで日々の中の思いを短歌にしている、という姿勢がかっちりしている気がする。
おめでとうございます男の子ですよと言われたけれど女の子だったよ
この歌がもし、「家系図途絶える」と繋がっているとすると、おそらくこの人には子を成すための性器が無い。男の体で生まれたけれど、実際には女だった人。女としての性器が無いから、家系図は途絶える。もしそういう物語があるのだとしたら、前述の歌の「わたしであること」という単語に込められた傷はあまりにも重い。わたしであることはつまり女であることで、たとえば体が男ならばその性器を使って家系図を途絶えさせないこともできるかもしれない。しかし、わたしであるためには、男性器を使うことはできない(絶対にできない、考えるだけで私でも吐き気がする)。それがわたしにとっての絶対的な平和で、そのために家系図は途絶える。戦争で死んだ幾億の人たちの家系図が途絶えたことは痛ましいけれども、わたしが家系図を「途絶えさせない」ことはわたしの平和とは真逆に位置するのでどうにもできない。一方に大量の人の死があり、一方にわたしという人間の譲ることのできない尊厳がある。比べられないことだが、重みとしてはどちらも同じくらい重要な平和。
多分もう転生しないよ次はもうカーテンになって風に揺れてる
この歌の主人公(菊竹さんなのかもしれない)は、もう生まれたくないと思うくらい多くの傷を受けて、受けすぎてしまって、もう疲れ果てて、カーテンという無機物になって、風という現象を可視化するだけの存在になりたいと思っている。この歌もすごい。目に見えない、自由な存在にも思える「風」になりたいのではなくて、風に揺れるカーテンになりたいと歌うことで、それがけして大それた望みではなく、けなげな、ささやかな望みであることを示してくる。自由などなく、カーテンレールに固定され、経年劣化で色褪せ、風に揺らされるがままのカーテンに「なって」いる。もうそれは既に決まっていて、なんならもう行なわれていて、くらいの既定事項。それでもいいから、もう、人間に生まれたくない、という果てしない疲れを、この風に揺れるカーテン(風に揺れるくらいだからおそらく薄手の儚いカーテン)といううつくしい情景に収束させている。
加害者への目線
ひとつ、個人的に気になったのが、「加害」についての言及がある歌。
最低限のしあわせ感じてふさふさのぷよぷよになって贖罪は
パン屋花屋いろいろないいにおい包まれて街角の加害者の会
一つ目は、贖罪という語から、自分が加害者なのだろうかと感じた。
二つ目は、加害者の会とあるから、自分が加害者の可能性もあるし、加害者たちが営む商店が立ち並ぶ街角とも取れる。
どちらも、心地のいいものと加害を組み合わせている。
贖罪の歌は、自分が贖罪しなければならない立場であるので、しあわせは最低限しか感じてはいけないのだろうし、ふさふさのぷよぷよは、被害者をそれ以上傷つけない存在であることを示したいのかもしれない。あるいはこれも被害者の立場で、加害者にこれを要求しているとも取れる。
パン屋花屋の歌は、それまでに出てくる「団地」や「モラハラ夫」のイメージから、妻や子に加害を加えている男たちがパン屋や花屋の店主で、かれらの商店街の連盟のようなものがそのまま加害者の会となっている恐ろしさも感じる。そもそも「加害者の会」というのがおそろしい単語で、被害者の会と違って実際にこう名乗る団体はない。名乗りはしないが、「加害者の会」というのは実際にはあって(DVで離婚した妻の居所を突き止めようとする元夫たちの連帯や、児童ポルノを流通させる団体など、それに当たると思う)、「加害者の会」は、過去の加害ではなく、どちらかというと「これから(も)加害をします」という宣言を含んでいる。そのおそろしい団体が、いいにおいのする「街角」(誰にとっても心地いいはずの日常)で結成されているという事実に、果てしない恐怖が詰め込まれいている。
いじめられている子を守っていじめてる子を別室で守って
これも加害者への目線がある。「守って」とあるのは、「守って(いる)」なのか「守って(ほしい)」なのかはわからない。加害者に対して否定的なのか肯定的なのか(加害者もまた被害者であるという視点なのか)あいまいにされているように感じるが、「別室で」とあるのは、やはり「加害者のほうが手厚く守られているのはおかしいだろう」ということだろうか。これが子供の話であれば、たしかに加害者にも何らかの傷があるかもしれない。しかし、十分に責任能力のある成人のことだとしたら、答えは明白だ。
女の子をねらった事件男の子をねらった事件 熱湯かかる
こういう歌もある。これは被害者は明確だが、加害者がどこにいるのか示されていない。熱湯がかかったのは、その事件になんらか関係した主人公(作者?)の心なのだろうか。熱湯かかる、という表現は強烈な傷みをともなう「読み」になるし、痛ましい前半の内容に顔を顰めている、そんな瞬間にもう熱湯をかけられて、とても何か考えられるような状態ではない、強烈な断ち切り方をされる。こういう短歌が、読み手の時間感覚をきれいに操作していて素晴らしいなと思う。
ノンフィクションとして
この歌集は、主人公が男になったり女になったり「俺」「ぼく」「わたし」になったり色々だ。前半は女として受けた苦しみの歌が多いように思うが、被害者だけでなく加害者にも焦点が当たっていたり、賃労働をしているかと思えば、学校に通っていたりして、そのどれもが、ああ、現実なんだ、と思わせる。これは現実に「誰か」が感じた傷や傷みやそれに対する反撃や希望なんだ、と感じる。
心は胸のふくらみの中
歌を引用しすぎてもきりがないので、最後に表題作。
おっぱいが佐賀平野のよう乳がんは心は胸のふくらみの中
この歌を見た時に、絶句してしまった。
心は胸のふくらみの中、と言っているけれど、その「胸のふくらみ」は、乳がんによっておそらくもう無い。佐賀平野になってしまったのだ。もしくは片方の胸のふくらみはまだあるのかもしれない。それでも、心は、物理的にはもう幾らかは存在しないことになる。
心は胸のふくらみの中に置いてきてしまったから、もう無いということなのだろうか。
胸のふくらみはもう無いけれど、心があるのだから見えない胸のふくらみがここに確かにある、ということなのだろうか。
この歌について友人の赤森さんと話し合った時、まず「佐賀平野」という固有名詞で、現実と地続きのことであるとすぐにわかるし、おそらく佐賀平野かまたはその近くに住んでいる実在の人が主人公なのだろうと想像がつく(佐賀平野は別の歌にも出てくる)、ということを考えた。赤森さんが「佐賀平野という言葉を使ってくるところがすごい」という意味のことを言ったので、そこまで考えが及んでいなかった私は、確かに、とこの歌について改めて上のように考えた。それまでは胸のふくらみがないことについてだけ考えていた。つまりこの歌集のタイトル『心は胸のふくらみの中』を目にした時、当然、胸のふくらみはだれかの体についているものだと考える。そして、これは女の歌なんだなと連想する。しかし、実際には胸のふくらみは切除されたあとで、つまり心があるのかないのかもわからない歌で、ただ整然とした「胸のふくらみがもともとあった部分」の空白を示される。こうなると、これは体を失って心も失ったかもしれない人の歌であって、直感的に頭をよぎった「女の歌」というイメージが漂白される。女には違いないが、女を失った女の話とも取れるし、女がどうとかいう話ではなく、性別関係なく心を巡る話なのかもしれないとも思う。
タイトルにはとくに惹かれないな、と思って手に取ったら凄い歌ばかりだったので、浮かれて購入したのだが、このタイトルの全容がわかった時、なんだか途方もなさを感じた。
この歌はどのように受け取ってもいいと思うけれど、私はひたすらの悲しみと、すこしの清々しさを感じた。
この歌集は神保町ブックセンターにて購入した。
神保町ブックセンターは短歌に親しむお姉さんが数年前にはいたはずなので、とても歌集の品揃えがよく、おすすめです。