この世界は何故あるの?
この物質界を維持するために、宇宙の創造主、至上主はさまざまな姿をとって化身しています。
・特性(白)の(ヴィシュヌ)の姿
・創造のために、激性(赤)の(ブラフマー)の姿
・破壊のために、無知性(黒)の(シヴァ)の姿
・リーラーアバターラ…リーラー をする化身
・プルシャアバターラ…プルシャ、マハー・ビシュヌ(ガルボーダカシャーイビシュヌ、クシローダカシャーイビシュヌ)
・グナアバターラ…物質界の3様式を作る化身
などなど。。
大学院レベルのヴェーダ教典、『シュリーマド ・バーガヴァタム』(第10篇(1巻)第12巻20節)には、主にグナアバターラについて書かれています。
至上主は、「サット・チット・アーナンダ」。
全てが永遠で、知識と至福に満ちている御方、という意味です。
その至上主は、物質的な欲望を持っている人のために、この物質界を創造しました。
物質界は、グナによって縛られている世界です。
(グナについては前の記事をご覧くださいね。)
グナによって縛られた思考と行動によって、カルマが生じます。
グナとカルマは密接な関係なのです。
全ての創造はビシュヌから始まります。
グナアバターラの場合、、最初の創造はここではさて置き、そのあとどうするかと考えますと、、
創造には、激性様式が必要です。二次的創造はブラフマーがするのですが、ある程度の行動力、活発性、欲望がないと物は作れないのです。
作ったものを維持するのはビシュヌで、グナアバターラのビシュヌはクシローダカシャーイビシュヌを意味します。
創造の後は、全ての生命体のハート(心臓)に入り、全ての創造体を観察して許可しています。維持しているということです。
そして宇宙破壊の時に、シヴァ神が現れて踊り、宇宙の水の中に入るか、あるいは火で焼かれて終わります。
至上主クリシュナは、このことに直接手を煩わしません。ビシュヌでさえも、特性だから直接は、この世界に直接的な関わりはしません。
ビシュヌの場合は、観察者あるいは目撃者であり、直接的には手を下さないのです。
ある人には、
「なんでこんな(良い)私が苦しまなきゃいけないの?」
「神様はなんでひどいの?」
「神様なんているわけない!」
という人がいますが、これらは正確には正しくありません。
神様が悪いのではなく、私たちの行動様式がカルマによって、、特性、激性、無知性というグナによって踊らされて行動し、この行動した結果を、ただ苦しんでいるだけなのです。
カルマの結果を、楽しんだり苦しんだりしているだけで、至上主のせいではなく、至上主のせいにするのは酷なのです。
ではそのカルマの束縛からどうやって抜け出るか?という方法が、バクティ(ヨーガ)なのです。
ヨーガだけでは不十分。
バクティという、至上主と関係を持つところまで行かないと、望ましい結果を得られないのです。
カルマヨーガやギャーナヨーガ、アシュタンガヨーガやハタヨーガなと、さまざまなヨーガがありますが、バクティを含まない限り、望ましい結果を得られないということ。
師は、他のヨーガをする必然性はなく、時間の無駄、とまでおっしゃるほど、賢明な人は、ストレートでバクティをします。
しかし、ハタヨーガなど他のヨーガが意味がないわけではありません。
ハタヨーガは健康維持にはやはり有益です。
私たちは持って生まれた性質によって、肉体を動かすのが好き、思考が好き、など、色々な特性があるからです。
しかし、否定するわけではありませんが、もし、望む結果を素早く得ようとするなら、バクティだけをする。少なくとも、バクティを加える必要がある、ということが、啓示教典、とりわけ最高の啓示教典には書かれています。
さほど幸運ではない人、望まれない人、タマスやラジャスに覆われている人は、他のヨーガをして、徐々に浄化されると、やがてバクティに縁がある時が来ます。
全てが浄化のプロセスになっているのです。
ところごバガヴァーンであるクリシュナが、物質自然の三様式を超えているよ、リーラーをするよ、スピリチュアルな姿を持っているよ、永遠で知識と至福に満ちているよ、と理解するだけで、私たちは物質的束縛から自由になると、『バガヴァッド・ギーター』(第4章9節)に書かれています。
クリシュナの降誕と行動の神秘性のことを、サンスクリット語で「divyam」ディッビヤンと言っています。
これは、至上主クリシュナは、物質的なグナの影響を超えているよ、と、「サッチーダナンダ」=超越的を意味しています。
クリシュナの姿もリーラー も、全て永遠で知識と至福に満ちていて、物質的なグナにはほんの少しも触れることが出来ませんよ、ということ、このことを理解する者は、精神界に戻ることができる。
それは何故ですか?というと、リアリティがわかった、本当のことがわかったから。
もしリアリティ、本当のことがわからない、幻想の世界に囚われているなら、もう少し幻想の世界にいてくださいね、ということ。
では、クリシュナの降誕と行動の神秘性を理解するにはどうしたらいいのか?ということになります。
これが、「聴くこと」。
そのことを知っている、悟っている人から聴く。
耳から入ったものが、ハートに落ちる。
ハートに落ちて、ハートの中にある汚れ、幻想を取り除く。
聴くとは、divyam、ディッビヤンギャーナ!
神聖な知識を得るということ。
無知に生まれた私たちの目が、本当の意味で開くということ。
聴くということは、真理を見ることができるということ。
真理をありのままに見ることができるようになる。
その時には、私たちはもう、この世界に生まれてくることがない。
Jay Sri Radhe!!
Mangala Arati