「発表会」という行事をどう捉えるかは自分次第。価値をどう生み出しますか?
明日は発表会。
教師としてここまで力を入れられなかった発表会は今までにない。
学校行事の発表会は一体誰のものなんだろう。
何のためにやるのだろう。
わたしはそもそも行事なんてなくてもよいと思っている。
やりたいならやればいいし、やりたくないならやらなければいい。
やりたくもないことをやらされていることほど苦痛なものはない。
でも、やりたいからといってすぐに話が通るのもおかしい。
学ぶべきことは、順を追って物事は作られていくということを学ぶこと。
やりたいなら必死になればいい。
必死になるならそれをいくらでも応援する。
でも、人任せにするなら私も必死にならない。
ただ、相手の心と自分の心は比例するけど、
私は教師なので、子どもが必死になるように仕向けることはする。
それが戦略、授業設計だろう。
行事をやったか、やらなかったかなんて問題ではない。
はっきりいって、そんなものはどうだっていい。
ただの建前に過ぎない。
では、本質はどこにあるのか?
考えたことはあるのだろうか?
学校行事が当たり前のようになり、
去年もやったから、今年もやる。
親が喜ぶからやる。
いやいや、親を喜ばせるためにやるんじゃないでしょ。
それは、教師や親の自己満で、子どもの真の心はどうなんだろう。
子どもの心を育てることは、簡単なことではない。
でも、学校だからこそ育てられることはたくさんある。
経験をたださせればいいという問題でもない。
中身が伴ってなければ、できたできなかったのただの結果どまり。
結果も大切だろうけど、やっぱりそれまでのプロセスと今後の見通しの方が重要で、結果が出て終わり。それで満足なら最高の学びの機会を半分以上台無しにしているだろう。
今日はとあるクラスの授業を見せてもらった。
模擬市議会をやっていた。
子どもたちは終わった後に、
「もう1回やりたい」と騒ぎ出す。
なぜか?と聞くと
「うまくできなかったから」と答える。
うまいって何?と聞くと
答えられない。
この模擬市議会の中の上手い下手とはあるのだろうか?
上手くできたからなんなのか?
議会にやり直し機能はついているのだろうか?
上手く原稿を読めなかった。
緊張したから、今度は緊張しないようにしたい。
原稿を上手く読むことが大切なのか?
緊張しないことがいいことなのか?
何か間違っていないか?
疑問ばかりが頭の中をよぎる。
「あなたたちは何のためにこの模擬市議会をしているのか?」
やって終わりではないはず。
ここから何を学ぶのかを考えながら、もう一度模擬市議会を行うならまだ2回目をやってもいいと思う。でも、もしそうでなければ2回目にそれほど大きな価値はない。
表面上だけの結果に捕らわれないように、ちゃんとその奥まで考えられる子に育ってほしい。そのためには、教員が目的をもった教育を目指さなければいけないのだろう。
WigginsとMcTigheによる「Understanding by Design」
子どもたちは、経験からたくさんのことを学ぶ。
たしかに、そうである。
でも、もし経験だけで学びが可能であるならば、教育は必要ないだろう。
でも違う。
私たちの仕事は子どもたちの学びの最大化・効率化だと思っている。そのためにカリキュラムデザインを行い目的の明確化を図り理解を形作る。
目の前にあるものをどう捉えるかは自分次第。
明日の『発表会』だってそうである。
否定も肯定もしない。
でも、子どもにはまずはどんな捉え方があるのかを教えなければいけない。
それが、教育なのではないか?