ダメット『分析哲学の起源』
マイケル・ダメットは、1925年にロンドンに生まれ、オックスフォードのウィカム論理学教授の職にあった人物だ。岩波の哲学思想事典には、ダメットの項もあり、つぎのように説明している。「〈言語論的転回〉を起点にして数学における直観主義の正当化を試み、実在論対反実在論の論争を〈意味の理論〉という研究プログラムの名で論理的に定式化し直したイギリスの哲学者・論理学者。」このような記述に出くわすと、私のような数学の才に乏しい者は、いくら興味を覚えても、ダメットの著作を手にとるのを躊躇してしまうのである。
しかし、たぶん、論理の哲学をその固く閉じたイメージだけから倦厭してしまうのは、自身の哲学を実践するのに大変もったいないことであり、また、たいていの書物にはそれ特有の壁があるのだから、まずは読んでみるに如くはなしとも言える。
『分析哲学の起源』という本の全体は、ラッセルからエヴァンズに至るまでの20世紀における指示理論の展開を追いながらも、フレーゲとフッサールとの対照が語られる。よく言われるように、言語から出発するフレーゲと心理へと向かっていくフッサールという対照がここでも踏襲される図式であることに変わりはない。しかし、ダメットの文章が単に歴史を追い、過去を現在から論評しようという意図のものではないことを、読者はその数行を読んだだけで気づかされるのである。では、分析哲学の単なる歴史でなければ、何が記述されているかと言えば、「意味についての哲学」そのものである。フレーゲにとって、意味とは命題がもつ思想であった。その名も「思想(der Gedanke)」と題された論文の中で、フレーゲは以下のように書いていた。
われわれは、例えば感覚印象を持つような具合に思想を持つわけではない。しかしまた、例えば星を見るような具合に思想を見るというわけでもない。それゆえ思想の場合については、何か特別な表現を選ぶのが得策である。そのような表現としてわれわれに自ずと思い浮かぶのは、「把握(fassen)」という語である。
ここで、フレーゲは知覚と思考を分けている。知覚も思考も外界の何かを対象することがあるのは同じだ。もちろん、思考は可能的な対象を捉えることもあろう。ところが、たとえ同様に外界を対象としていても、知覚と思考ではあり方が異なるということが、上の引用では述べられていた。知覚は外界の感覚印象を持つが、思考による把握にはそのように感覚印象によって対象を捉えてるのではないのだ。
このように、知覚と思考をひとまず分けて考えることを出発点にしながらも、この後、フレーゲの考え方は、知覚にも言語的要素が介入してはいまいかという論点へと旋回していく。ただし、今回、追いたいのは、フレーゲとフッサールの対称なので、その後の旋回は予告に留めて、フッサールの方を見てみよう。『論理学研究』の4巻4節にはつぎのように書かれていた。
一つの例を考察してみよう。私が今、庭を見ていて、「一羽のクロウタドリが飛び立つ」という言葉で私の知覚を表現するとしよう。この場合、意味が伏在している作用はどれであろうか。
問題は、「意味が伏在している作用」と述べられているものの実相だ。没後公刊された『経験と判断』には、つぎの記載がある。
事実的な経験世界はタイプ化されて経験される。事物は木、灌木、動物、蛇、鳥、などとして、さらに種類別には、樅、菩提樹、ニワトコ、犬、ヤマカガシ、燕、雀、などとして経験される。テーブルは、お馴染みではあるが、新たに再認されるものとして特徴づけられる。
つまり、フッサールも知覚は単に感覚印象それのみにおいて成立してはないと言う。しかも、感覚印象の他に知覚に作用するのは〈意味〉なのである。しかし、〈意味〉についての捉え方がフレーゲとフッサールでは大きく異なる。フッサールは、〈意味〉の核には「ノエマ的意味」があると言ったのだ。『イデーン』の91節では次のような、わかるようなわからないような記述が見られる。
これらの各体験にはノエマ的意味が「住み込んでいる」。このノエマ的意味は、異なった体験においても親近性を持っており、いやそれどこおか時には核の成素に関しては、本質的に等しいものでさえある。それにも拘わらず、そのノエマ的意味は異なった種類の体験においては異なった種類の意味なのである。
(ちなみに岩波文庫版の訳は以下のとおり。「これら体験の各々にはあるノエマ的意味が「内存」している。そしてこの意味はーーたとえそれが種々異なる体験においていかに親近であろうとも、あのときには核部から見ていかに本質上相等しかろうともーー、種類の異なる体験においては必ず別種の意味である、すなわちときに共通なる点があっても、それは少なくともその性格を異にする、そしてこのことは必然的にそうなのである。」)
そうなると、問題は「ノエマ」である。フレーゲが思想の次元で〈意味〉を捉えていたのに対して、フッサールは「ノエマ」なるものの次元を考案したのだ。