『スパイダーマン スパイダーバース』と「35歳問題」
TOHOシネマズ新宿にて『スパイダーマン スパイダーバース』のIMAX 3D先行上映を朝一の回で鑑賞した。一般上映は来週8日から全国でということらしい。
去年公開された『search/サーチ』を知り合いの方を通じて試写会に行けることになり、ソニー・ピクチャーズで鑑賞した。ソニー・ピクチャーズでの試写は事前に席を予約しないと観れないので、今後も試写をその後も見るために個人情報を登録している。
この『スパイダーマン スパイダーバース』も試写のお知らせをもらっていたが、一回も行けなかった。試写が好評のため連日満席が続いたので、追加の試写の案内が3回ぐらいメールで来た記憶がある。ということは映画関係者が観てこの作品の出来はいいということなんだろうなと思っていた。映画関係者の中で口コミが広がり試写にもたくさんの人が来て、それでさらに、という展開だったはずだ。
ただ、個人的に言えばマーベル作品をある程度は観ているけど、ハマっていると言えるほど、すべて観ているわけでもなく(去年の今頃公開された『ブラック・パンサー』は最高だったし、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』も大好きですけどね)、今回の『スパイダーマン スパイダーバース』も去年ぐらいから映画館で予告編観てもどうも惹かれるものがなかった。
↑この最初の予告編はネタバレもできるだけしないように今作の重要な部分がほぼわからないものになっている。最後に少年のスパイダーマンと大人の、ピーター・パーカーのスパイダーマンが駅のホームで話しているシーンがあるぐらいだ。この後にあった予告編では電車に少年が出した蜘蛛の糸がひっついていて、彼ともうひとりの男が離れなくなって、ブルックリンの街を、車が走る道路を跳ねながら電車に引っ張られているというスピード感と構図がどんどん変わるものだった。
時空が歪められたことにより、異なる次元で活躍するスパイダーマンたちが集められた世界を舞台に、主人公の少年マイルスがスパイダーマンとして成長していく姿を描いた長編アニメーション映画。ニューヨーク・ブルックリンの名門私立校に通う中学生のマイルス・モラレス。実は彼はスパイダーマンでもあるのだが、まだその力をうまくコントロールできずにいた。そんな中、何者かによって時空が歪めらる事態が発生。それにより、全く異なる次元で活躍するさまざまなスパイダーマンたちがマイルスの世界に集まる。そこで長年スパイダーマンとして活躍するピーター・パーカーと出会ったマイルスは、ピーターの指導の下で一人前のスパイダーマンになるための特訓を開始する。ボブ・ペルシケッティ、ピーター・ラムジー、ロドニー・ロスマンの3人が監督を務め、「LEGO(R) ムービー」のフィル・ロード&クリストファー・ミラーが製作を担当。第91回アカデミー賞で長編アニメーション賞を受賞。(映画.comより)
どうやらこのアニメの新作『スパイダーマン』では何人かの「スパイダーマン」が出るということはわかるようになった。となれば、『仮面ライダー龍騎』のような仮面ライダー同士のバトルロワイヤルになるのかな、とか思っていた。
今作ではそういうゼロ年代初頭のテロの時代、大量虐殺兵器があると言って嘘をついても勝てば正義であり、正しくても嘘をついていなくても、負ければ悪であるという世界の延長線なのかもと思っていたが、いい意味で裏切ってくれた。そして、多数の「スパイダーマン」が出現する今作を、僕はかつて東浩紀さんが書いた小説『クォンタム・ファミリーズ』にも出てきた「35歳問題」を思い浮かべながら観ていた。
『スパイダーマン スパイダーバース』はまず少年・マイルスの成長譚である。彼の父親は警察官であり、母親は医者のようである。地元の友達とは違うエリート進学校に通っていて(試験に合格し抽選に通らないと入学できない、そのため父はせっかく入れたのだから辞めてほしくないと考えている)、週五は学校の寮にいて土日は実家にいるという生活をしている。
マイルス自身も勉強はできるのだが、エリート校での勉強のレベルは高く辞めたいと思っている。彼はわざと零点をとって、退学扱いしてもらおうと試みるが、○×の二択の問題は適当に答えても正答率は50%になる。つまり零点を取ろうと思うとすべての正解をわかっていないと不可能であり、先生に見破られてしまう。
マイルスには大好きな叔父がおり、彼も成績優秀だったがなにかで道を外れてしまい、父とは不仲になっているという設定。寮から抜け出しては叔父の家に行き、カッコいいヒップな叔父の仕草や言葉遣いを学んでいく、同時に二人で駅構内の奥にある秘密の場所でグラフィティアートを描いたりしている。その場に現れた放射性(?)のある蜘蛛に刺されたことにより、彼は「スパイダーマン」として覚醒する要素を持ち合わせることになる。その秘密の場所の奥では、「スパイダーマン」ことピーター・パーカーが闇社会に君臨するキングピンが時空を歪めようとするのを阻止しようと敵のモンスターたちと戦っていた。ここで重要なのは時空を歪める、ある種の別の次元(並行世界)と現在をキングピンが繋げようとしている理由も実は、マイルスと父との関係性に見られるような家族についてだということ。ただ、それは間違っているとしか言いようはないが。感覚としては理解できるものでもある。
冒頭におけるこのキングピンの部下との戦いでこの世界における「スパイダーマン」ことピーター・パーカーは死んでしまうことになる。そして、時空は歪められてしまった、これが上記にあったあらすじに書かれている異なる世界からそれぞれのスパイダーマンがこの世界に現れる理由となる。
ずっとNYを守り続けたピーター・パーカーの死を悼む市民たちがいる。彼に託された次元を歪める装置をとめるスティックを手にした新米の「スパイダーマン」の可能性を秘めたマイルスは、売店で売っている「スパイダーマン」のコスプレ服を着て、雪の中彼の墓に行く。そこで出会うことになるのは、こちらの次元のピーター・パーカーとは髪の毛の色も違う、腹も出ている別次元のピーター・パーカーだった。この彼はあちらの次元では結婚生活も破綻しており、事業も失敗しているというダメな「スパイダーマン」である。その後、もう四つの次元からそれぞれの世界の「スパイダーマン」たちがマイルスとパーカーの前に現れる。計六人の「スパイダーマン」は次元を歪めた装置を止めるためにキングピンたちに戦いを挑む。ただ、スティックを差し込むと次元が元に戻るので、違う次元の「スパイダーマン」はおそらく消えてしまうであろうことが示唆される。同時に少年「スパイダーマン」はまだまだ未熟で彼には荷が重いと判断されてしまう。ダメなピーター・パーカーも彼を育てるのにちょっと戸惑う。ここでの師弟関係もこの作品の重要なキーとなる。
マイルスと父の関係、マイルスと叔父の関係、マイルスとピーターの関係、という父であり兄であり師である三人との関係の中でマイルスは成長していく。そのため、もはや中年と呼ばれる年齢になっている自分は彼ら三人の方が身近な存在だった。
若い世代を見守るということや、自分が上の世代から教えてもらったことや与えてもらったものをどう引き渡せる(ほどのものを自分が持っているとは言い難いが、それでも)のだろうかと、そして僕たちもかつて少年だった頃がある。少年だった頃の自分が見ていた大人はどんなものだったのか、と二世代の感覚が重なりながら細部の違いを年齢や経験といったものを感じることになる。
マイルスぐらいの子供がいる親世代は一緒に観に行くと最高なんじゃないかなと子供いないけど、思いました。映像といいヒップホップメインの音楽といい、物語の展開、しかも120分以内にきっちり収まっている、おまけにIMAX3Dで観たら最高っていうか最高に楽しくて極上なエンタメ作品である。なのでオススメでしかない。
ここからは『スパイダーマン スパイダーバース』を見て僕がどうして、さきほどの「35歳問題」について考えたのか想像したのかを書いてみたいと思う。
数日前に東さんの新刊『ゆるく考える』を読んだことも強く関係している。この新刊では十一年前からのエッセイが収録されており、東浩紀さんと宇野常寛さんが交流していた頃のことなども書かれているし、『クォンタム・ファミリーズ』を『新潮』で連載中の話なども出てくる。
作品は二部構成になっており、第一部では2008年に存在の基盤を置く往人を語り手とする「父」の章と、2035年にいる風子を語り手とする「娘」の章が交互に展開し、二人の物語が交叉して以降の第二部は三人称となり、さらにその本編の前後を「物語外1」「物語外2」という章で挟み込む形になっている。風子のいる2035年の世界は量子回路の発明によってコンピュータが飛躍的に進歩した反面、平行世界からの干渉を受けるようになった世界であり、こうした理論的背景をもとに物語が展開していく(平行世界の存在を示す際の道具としてウィキペディアも用いられている)。また作中では平行世界を扱っていた作家として村上春樹、特にその『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が繰り返し言及されており、春樹について作中で提示される「35歳問題」(人生の半ばを過ぎて「できたかもしれなかった」「できなかった」という仮定法過去の総和が直説法過去・直説法未来の総和を上回る、という問題)が平行世界を語るモチーフの一つとなっている。二つの章が交互に展開する構成も村上の同作品にならっていると考えられるもので、文体面にも村上春樹との類似が見られる。(東浩紀著『クォンタム・ファミリーズ』wikiより)
『クォンタム・ファミリーズ』発売は10年前の2009年の年末であり、僕は27歳で三十路が見えていた。当時はまだ三十代半ばになるとそういうことも考えるのかなあと思うぐらいだった、はずだ。現在ではもうすぐ37歳になる。
「35歳問題」というのはそこを越えて不惑である40歳ぐらいまでの間にとくに悩む問題なのかもしれません。実際にはサブカル男子40鬱とか言われるぐらいので、40代になってもより深刻化するような気もするが。
自分はサブカルか?と言われると付き合いがあったりよくしてもらっている出版業界界隈の人はサブカルな人たちがわりあい多いのだが、自分は根っこはそうでもないような気がするので、う〜むと思わなくもない。
27歳の頃の自分はドン・キホーテのレジバイトをしている小説家志望のフリーターだった。現在の37歳の僕は週三でウェブサイトのスタッフをしながら、ライターとして連載を三本(メルマガ『水道橋博士のメルマ旬報』「碇のむきだし」、『週刊ポスト』映画コーナー「予告編妄想かわら版」、メルマガ『PLANETS』「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」)書かせてもらっている。ということはなりたいものになれたわけではない。
あのころの未来に ぼくらは立っているのかなぁ 全てが思うほど うまくはいかないみたいだ
SMAP『夜空ノムコウ』の歌詞は年々響くようになってくる中年あるある。
連載している中でも「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」は戦後民主主義における「父性」と「成熟」をめぐるものになっている。それはあだち充という偉大には決して見えないが、実はとんでもなく偉大な漫画家(2020年には画業50周年だから!)と双璧をなすコインの裏表である漫画家・高橋留美子との話でもある。
メルマガ購読してなくてもnoteで買えるみたいです、宣伝しときます。
ラムちゃんの胎内のような友引町や響子さんの胎内のような一刻館、高橋留美子漫画の主人公たちはそこで「母性」に守られることで、あるいは一体化することで「成熟」を先伸ばし続けている。『PLANETS』主宰の批評家の宇野常寛さんの『母性のディストピア』をご参照いただければ。
刊行時にさせてもらったインタビュー貼っときます。
それは江藤淳がいった日本とアメリカの関係性における「本音」と「建前」という二枚舌であり、80年代の『少年サンデー』でラブコメというジャンルで第一線に立ったのがあだち充と高橋留美子であったという話です。
現政権の安倍内閣の首相をはじめとする政治家たちが責任も取ることもなく、自分たちの都合の良いルールや法改正を見ていると「成熟」できなかった日本の末路だと思えなくもない。決して高橋留美子作品が悪いわけでもないし、彼女が描いていたもののせいでもない。同時に対となるあだち充作品も売れ続け支持されているのだから、その二枚舌はかつては有効だったはずだが、「クール・ジャパン」とかおそろしくダサいことを国策として打ち出した日本のアニメや漫画は高橋留美子的な「成熟」を拒否する方のカルチャーのほうだけが肥大化して(国内外だけではなく受容されて)しまっているように思えてならない。
↑発売時に読んだ時のブログ。
第二部の最後で往人がフラッシュメモリを噛んでデータが壊れて、汐子が消えるくだりがあり、その次にあたる物語の最後部分の「物語外2」では風子ではなくその前の第二部で消えたはずの汐子が往人と友梨花の娘になっているのはなぜなんだろうと言う話になった。
で、みんなが納得したのはこの物語自体は汐子の見ていた夢ではないかということ、汐子の夢は往人達の現実ではないかという気がした。
友梨花が黒幕のように出てきてさらにその上に汐子がいて、でもその物語自体が彼女の夢=幻想だった=それは父たちの現実になっているという感じ。
読書会の後にレジを打ちながら暇な時に考えていたのは、それって『ケイゾク』のスペシャル「特別篇」のタイトル『PHANTOM〜死を契約する呪いの樹』と同じような気がした。このタイトルは最初は『AYA'S PHANTOM』だった覚えがする。
『クォンタム・ファミリーズ』の最初のタイトルは『ファントム・クォンタム』として掲載されていたはずだ。
そのタイトルで考えれば量子家族を幻想してた・夢見ていた主体がいる。それが汐子ならばこの物語として不思議が消える。
世界の終わりにいるのは汐子で彼女が夢見ているハードボイルドな世界にいるのが往人たち家族なんじゃないだろうか。
「父性」という言葉、村上春樹作品における成熟し父になるということを拒否するような世界観のリアリティも高橋留美子作品に通じていた。村上春樹作品は近年ではそちらではない方に舵を切っているが。そこで「35歳問題」と「父」になるということを37歳の僕は考える年齢であり、当事者でもある。しかし、未婚で結婚の予定もなく、父になることもしばらくなのかずっとなさそうな自分としてはこの「父」や「父性」というものをどう捉えるのか、なるべきなのかならないべきなのか、諦めるのかなど考えることが起きてくる。
周りの環境もあるだろう。現在の日本では未婚率は上がり出生率は下がっている。生涯未婚率もどんどん高くなっていると言われているのに、僕個人の周りは結婚しているし、子供もいるという家庭が多い。あれ?
まあ、非正規雇用と自由業なほぼフリーターな自分と正社員としてばりばり仕事もできるし、人間としてもちゃんとしている人を比べるのは無理もあるのだが、確実に周りの変化がこの年齢になると起きて、自分に跳ね返ってくる。そこに加えて、影響を受けていたり世話になっている方々が50代に入っていたりすると健康上の問題なども多々起きている。両親も70代前後なので病気や死も身近な問題になってくる。新しい子供の世代と死に近づく親や上の世代に挟まれるのがこの中年というやつなんだろう。
このまま行くとこれ孤独死だな、と思う。ワンルームのアパートでなにかあって急に死んだら部屋にある小説とか本処分するの高齢者になった両親とか大変だろうし、兄や知り合いがやってくれてもめんどくさいだろうなとか。たまにこの部屋なにかで火事になったらよく燃えるんだろうなとベッドに寝転びながら思う。しかし、結婚して子供ができて、いわゆる家族ができたとしてもまた別の孤独があるのだろうし、その問題からは逃げられない。そして、可能性世界のことも考える。これが「35歳問題」とリンクしてくる。
ありえたかもしれない現在と現在を比べてしまう。選択肢の中から選んだり、選ばされたり、時には強制的に決められてしまう、そうやって日々は、時間は進んでいく。時間は巻き戻せない。だが、違った選択をした並行世界はあるのではないかと思っている自分がいる。
もうひとりの、いや選択肢や状況なにもかものあらゆる可能性の世界が行き来できないがあるはずだと。そうであれば、例えば結婚している自分や父親になっている自分、もっと早くに死んでいて自分が存在しない次元、あるいは成功している自分、犯罪者になっている自分、あらゆる可能性世界があるとして、今いるこの世界はその中のひとつでしかない。しかし、ここでしか自分の生をまっとうすることはできない。
ゲームオーバーになってもコンテニューはできない(ものだと思われている)し、死後の世界はわからない。だからこそ、宗教ができたのだろう。死んだからといって、違う可能性世界にいけるということはないだろう、それは今この次元で生きている僕たちの想像の範囲内でのことで確かめる術はない。
「父」という存在、あるいは「家父長制」というもの崩壊。かつてあったものが現在ではない、あるいは機能していない、なくなっていくと思われる時にそれを当たり前だと思っていた考えは有効ではなくなっていく。
フェミニズム運動や近年のMeTooに関しても、男性側が当然だと思っていた「家父長制」というシステムのせいで女性蔑視などが起こったり、反発があるように思える。時代ごとに意識を変えていかないと、考えたり話し合うことでアップデートしないと「ほんとうになに言ってんだおまえ」ということになっていく。
差別主義者が台頭するのはそれまで当たり前だと思っていた価値観が崩壊し、壊れている最中だからこそすがりつくようにして、敵認定したものへ攻撃的になる。彼らは思想も思考も停止している。思考停止している人ほど話が伝わらない、通じない人はいない。だからこそ、やっかいだ。
勝てば正義だということになってしまった世界では、数の論理で多数派が少数派をゼロのようにしてなかったことにしていく。この辺りの問題意識もすでに世代差も出ているように思える。
就職氷河期で正社員になれる人が少なかった僕らロスジェネと、団塊世代が退職する時期に就活した大学生では就職率は違う。それは経済政策が成功したのではない。しかし、自分たちが正社員として就職できる現在の政権は数の論理では正しいとされている。議論をして反対意見を言う(それが正しい批判や論点がズレていることを指摘しても)人は嫌がるのも若い世代に多いのは、自分の意見を言うことが正しくない、空気を読むような環境で過ごしてきているからだろう。
結局中間層というか、団塊ジュニアの40代後半と彼らの子供ぐらいにあたるミレニアル世代に挟まれた自分たちの世代。上の世代はずっとアナログだったけど、成人後にパソコンやインターネットが普及した人たちで子供世代はパソコンや携帯が生まれた時からあった人たち、間をつなぐことができるのが30代ぐらいだろうなって思ってたけど、よく考えたらできるのか疑問になってくるし、上と下の世代でなんか仲良くやってる印象があるんだよなあ。
「父」というよりは、年の離れた長兄だったり、ある種の師弟関係のようなもので、「父性」が満たされたり完成されていくということもあるのかもしれない。というか、「父殺し」がなくなっていく世界では、血の繋がらない「父」と「子」あるいは「師」と「弟子」のような関係、疑似家族とはいかないがそういうものが重要になってくるのかもしれないと思うことがある。僕自身も師匠、師匠筋だと思っている人がいるというのはありがたいし、救われている部分がある。自分が彼らのような立派な人になれるかは別問題として。
『スパイダーマン スパイダーバース』では、マイルスには警察官の父、そして別次元から来たもうひとりのピーター・パーカーという師がいる。そして、もうひとり彼の人格形成に関わっているのが叔父である。この叔父はなかなかのキャラクターであり、映画を観てもらえればわかるが、このキャラクターはこの作品におけるマイルスのシャドウとして配置されている。彼が父や師に導かれなかった可能性としてのマイルスである。
しかし、「父」になれずとも、「師」にもなれなくてもこの叔父のような存在が必要なのかもしれない。血が繋がってなくても、父親や母親の兄弟姉妹でなくても、友人でも同僚でも顔見知りでもいいが、ゆるやかな関係性を持てる近しい他人の存在が人間の成長には必要なんじゃないだろうか。
『スパイダーマン スパイダーバース』はこの三人の「父」的な存在との関わりによって、マイルスが成長する物語としても見ることができる。だからこそ、僕は「35歳問題」や「父」になることを考えたのだと思う。