2月のレビューetc.
↑に引き続き今月BOOKSTANDにアップされたレビューを。
それぞれの生きるスピードと向かう場所へ 絲山秋子『夢も見ずに眠った。』
AFTER HOURS――橋本倫史『ドライブイン探訪』
二月中に原稿を出している【柴田元幸×トウヤマタケオ/J・ロバート・レノン『たそがれ』】と【マシュー・チョジック『マシューの見てきた世界 人生に退屈しないためのとっておきの21話】もたぶん三月中にはアップされると思います。
BOOKSTANDでのレビューは僕が勝手に編集の原カントくんさんに送りつけて載せてもらっているというものなのですが、そこにアップされると同時にYahoo!ニュースとかAERA.dotとかに転載されるというのがミソというか、いわゆる誤配が起きる可能性があるというのがおもしろいと思ってます。現在、僕自身がSNSでの発信をしていないので、基本的にレビューがアップされようがBOOKSTANDのツイッターアカウントでツイートされなければほぼ気づかれることもありません。
かと言って、その作品の著者や出版元だったり関係者が宣伝のために検索するのはたいていツイッターの中でのことで、昔みたいにブログに書いていてもたぶんそこまで検索しないしね。一部のエゴサーチャー(エゴサーチする人をこう呼ぶのかは知らないが適当です)ならネット上を旋回しまくって見つけるかもしれないけど、あんまりいないんじゃないかな。だから、ここで書いててもあんまり見つからないと思う。そのぐらいのほうがいいような気もするのは、ツイッターがもはや宣伝と自己承認だけの場所になったので、距離を置いているところがある。同時に自己承認欲求は僕にもあるし、だからこんな文章を書いている。
人間ってめんどくさいよね、誰もが。
BOOKSTANDで来月アップされるであろう二本もここに載せておきます。原稿料発生してないし、文句を言われようがない。ただ、そこでアップされるとさきほどのような誤配みたいにその作品とか知らない人が興味ない人に届くかもって可能性がいいなと思うから。
「声を読んで、文字を聴くということ ――「柴田元幸×トウヤマタケオ/J・ロバート・レノン『たそがれ』」
朗読と聞くとどんなイメージが浮かぶだろうか? 抑揚のない声で聞こえる程度の音量で小説や詩を読むというイメージの人が多いのではないだろうか。
近年は書店イベントも増えたことで以前よりも作家のトークイベントや時には朗読を聞ける機会もうれしいことに増えてきた。その中でも、近年いくつかの朗読イベントを見て(聴いて)きた感じでは、この人の朗読は本当に素晴らしく、しかも年々うまくなっている(というと偉そうだが)と思うのが翻訳家の柴田元幸さんだ。並の役者だったらまったく敵わないと思えるような朗読をされてます。その柴田さんの朗読と音楽家のトウヤマタケオさんの演奏に画家のnakabanさんの幻燈によるツアー「たそがれはどこですか」から、兵庫県篠山のrizmでのライブを録音した作品が「柴田元幸×トウヤマタケオ/J・ロバート・レノン『たそがれ』」という一枚だ。
アメリカの小説家であるJ・ロバート・レノンのショートショート作品集の中から、 訳者である柴田さんが特に愛する六作品(六曲)を朗読している。他に収録されている「coda」「Sofia」「追伸」の三曲はトウヤマタケオさんによる作曲、演奏、歌になっていて、表紙や裏表紙、ドローイングはnakabanさんが担当している。ライブでの朗読と演奏、幻燈によって体感できたものがCDという形にパッケージされている。また、柴田さんによる朗読された六作品も収録されたライナーノーツで読むことでたのしむこともできる作品になっている。
柴田元幸×トウヤマタケオ/J・ロバート・レノン『たそがれ』(Album Trailer)
↑では、柴田さんの朗読は聞けないが、演奏と幻燈がどんなものかイメージできると思う。朗読されるテキストは「道順」「軍服」「紅茶」「クーポン」「たそがれ」「短さ」でそれぞれが5分台から長いものでも9分近くの長さである。
“どの作品もユーモア(光)とメランコリー(影)が織り混ぜられていて、配分はそれぞれ違うが(たとえば「軍服」はユーモア主流だし、「紅茶」はメランコリー中心)、両者のごく自然な絡み合いが、作品を再読・再聴に耐えるものにしている”
ライナーノーツより
柴田さんの朗読では、このユーモア(光)とメランコリー(影)がより強く感じられる。心地いい朗読のリズムと共に短い掌編でありながら、その後も長く続く余韻を残していく。アルバムを聴き終わってもなぜか自分の中にその物語が漂っているような感覚になる。
私個人としてはこの中では特に「紅茶」と「クーポン」がお気に入りになった。どちらもライナーノーツに収録されている訳を読み返すと、「母」を喪失した後に残されたなにかの「形」を巡るという話だった。自分の「母」は健在なのだが、いなくなった者とその後に残された者の間にある気持ちを、J・ロバート・レノンはある「形」にして、短いセンテンスの中でその心境を表現している。もう一度、柴田さんの朗読を聴いてみると、いなくなった者への思いがどこかコミカルでありながらも、より響いて訴えかけてくるようだった。言葉にならない思いという言い方をするが、それを言葉にしている掌編と朗読だと言えるのではないだろうか。
この朗読から柴田元幸訳のアメリカ文学に興味を持って、読んでいく人もいるはずだ。また、前からアメリカ文学を読んではいるけど、あまり朗読を聴いたことがなかったり、興味がなかった人には入門編として最高の作品ではないだろうか。この作品を出しているレーベル・ignition galleryからは「柴田元幸×haruka nakamura/ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』」という作品も出ているのでこちらもぜひ聴いてもらいたい。
柴田元幸責任編集『MONKEY』vol.17「哲学へ」では、そのブライアン・エヴンソンが書いた「レイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』」を柴田さんが訳されているのが掲載されている。この一枚から新旧問わず翻訳文学に興味を持つ人が増えるといいなと思う。もっと外に意識が向かえば、内側だけで起きている様々な事柄のおかしさや、同時によさも見いだすことができるはずだから。
世界的に差別主義者が台頭してくるのは、それまでの価値観が信じられなくなっていることの反動だろう。そういう時にこそ、自分とは違う世界を知ることや、手を伸ばしても届かない場所にあるものに意識を向けることだけが多様性と想像力を失わない方法ではないだろうか。
「蝶々の舞う世界で――マシュー・チョジック『マシューの見てきた世界 人生に退屈しないためのとっておきの21話』」
僕はとあるシンポジウムのあとに行われた懇親会で、彼のスマホを渡されて「はーい。チーズ」と言いながら撮影ボタンを連写していた。被写体はそのシンポジウムで議題でもあり登壇者のひとりでもあった小説家の古川日出男さんとこのスマホの持ち主のたぶんアメリカ人の男性だった。彼は見ていてこちらが心地よくなるとびきりのスマイルで古川さんと一緒に記念撮影をした。僕は自分の名刺を渡して、彼にも挨拶してもらって名前を聞いたはずだが、いまいちはっきりしていなかったため、撮影しながらこの人は出版業界の翻訳の人とか、海外からもこのシンポジウムに登壇する翻訳者や大学の先生も来ていたから、その界隈の人なのだろうと勝手に思っていた。翌日あたりに彼からツイッターでフォローされて、マシュー・チョジックという名前でテレビやラジオにも出てタレント活動をしながら、大学の講師をしながら出版社も経営している多才な人だと知った。
というのがこの『マシューの見てきた世界 人生に退屈しないためのとっておきの21話』(以下『マシューの見てきた世界))の著者であるマシューさんとの出会いだった。偶然だがいくつか知り合いの共通点があった。この本の帯コメントを書いている園子温監督や、シンポジウムにも登壇されていた柴田元幸さん、あいにくニコラス・ケイジさんと僕は知り合いではないのだが、マシューさんが出演していたNHKラジオ『英語で読む村上春樹』には、園さんのスタッフ「アンカーズ」だった友人が関わっていた、という風に。そして、最初にお会いしたきっかけである古川日出男さんと、勝手に親近感がわいた。実はこのエッセー集を読むきっかけは知り合いがいて親近感を持ったことだけではなかった。『マシューの見てきた世界』がPヴァインの「ele-king books」というレーベルから刊行されているということも大きかった。
去年『アンダー・ザ・シルバーレイク』という映画を三回映画館に観に行った。内容は都市伝説を扱ったものであり、僕としてはドンピシャだったのだ。そこから連想ゲームが起きた。これを日本でやるなら青山と赤坂を舞台にして、映画同様に日本の芸能史や音楽業界なんかを持ち出して、ヒントや暗号が音楽や映画なんか潜ませてあるという設定はどうだろうか。例えば、阿久悠の歌詞だとか。主人公が謎を解決するために訪ねる場所には、このミレニアムが始まった時に鳴り響いていたレディオヘッドのアルバム『Kid A』のポスターを見かけることになるというイメージ。
『Kid A』にはもうひとつ双子の兄弟のようなアルバム『Amnesiac』があって、双生児的な世界観というニュアンスが感じられる。双子的な世界、もうひとつの可能性世界という意味ではアメリカのSF作家・フィリップ・K・ディックの小説がある。ディックには双子の妹がいたが、生まれてすぐに亡くなってしまった。彼の小説はネット社会やSNSが当たり前になる世界を予見しているような、ひとりの肉体の中に様々な人格(いくつものアカウントを使い分けるように)があり、個人とは向き合う世界や人に対して分裂症のように、あるいは多重人格のように世界に接していくことになる予言のように、読めなくもないのだ。
それから『Kid A』と『Amnesiac』を十数年ぶりに改めて聴き始めた。21世紀が来た頃に聴いていた時よりも新鮮でありながらより素晴らしいアルバムに感じられた。きっと、僕自身が変わったこともあるのだろう。そして、世界中で大きな災害が至るところで起きていたし(「氷河期が来るぞ」という歌詞を想起させる)、経済運動も強者や富むものがより豊かになるようにシフトしているからだろう。発売当時はどこか怖さがあった。しかし、現実世界で僕たちはそれを当然のものとして受け入れながら生きてきたからか、鈍感になったのか。それでも音楽は音楽として鳴り響いて、聴き手である僕の身体を揺らしていく。今の自分の感覚と非常に彼らの鳴らす音は以前よりもよりシンクロできるものになっていた。何度も何度も聴いた。
マーヴィン・リン著『レディオヘッド/キッドA』という本が「ele-king books」から刊行されていたので読んだ。そして、それから数日後に同じレーベルから出たマーク・フィッシャー著『わが人生の幽霊たちーーうつ病、憑在論、失われた未来』(以下『わが人生の幽霊たち』)という本を書店で棚差しになっているのを発見した。タイトルに惹かれた。このレーベルの書籍には背表紙の部分に「ele-king books」のロゴがあるから、ああ、『レディオヘッド/キッドA』と同じところからだと思った。
すぐには買わずに、後日違う書店で購入する際に著者のマーク・フィッシャーの前作にあたる本『資本主義リアリズム』も一緒に購入した。こちらの本の装丁はレディオヘッド『Hail to the Thief』とそっくりなので、前に何度も見ていて記憶に残っていた。順番通りに『資本主義リアリズム』を読み始めた。そこに書かれていたもので僕がこの10年ぐらいずっと疑問に思っていたことが解けたような気がした。
「当初の見た目(そして希望)とは裏腹に、資本主義リアリズムは、二〇〇八年の信用恐慌によって弱体化されたのではない。(中略)二〇〇八年にたしかに崩壊したのは、一九七〇年代以来、資本蓄積が隠れ蓑にしていたイデオロギー的枠組みである。銀行救済の後、新自由主義はいかなる意味でも信用(クレジット)を失った。しかしこれは、新自由主義が一夜にして消えたということではない。むしろ反対に、その前提は依然として政治経済を席巻するのだが、それはもはや、確固たる促進力をもつイデオロギー的プロジェクトの一環ではなく、惰性的な死に損ないの欠陥(default)として、そこに存在し続けるのだ。」
という箇所を読んで、全世界的に「死に損ないの欠陥」が存在し続けるメタファとしてゾンビ映画やゾンビを題材としたものがミレニアム以降に作られて全世界的にヒットしたのだと僕には思えた。
漫画『アイアムヒーロー』や韓国映画『新感染』もだが、去年は『カメラを止めるな!』のモチーフがゾンビだったこと、そこで描かれるゾンビは現在の社会における信用(クレジット)を失った新自由主義の成れの果てなのかもしれない、と。
『わが人生の幽霊たち』と同じ「ele-king books」から『マシューの見てきた世界』が出ると知ったのは、マシューさんのツイートだったように思う。このエッセーを読むと彼が出会う人との関係性においてユーモアを忘れずに、人生をたのしんでいることが伝わってくる。それは前述したようなゾンビが蔓延する世界とは真逆なものだろう。
グローバル経済や新自由主義が拡大していけば、個人はより国境や境界線なんかを越えて、より自由にもっと幅広く枠組みなんかを無視して世界中の人と交流していけるはずだった。だが、実際の世界ではそうできない人たちの怨念のようなものが吹き溜まりになって、いろんな悪意や不満がSNSをはじめとして暴発しているように思える。差別主義者が台頭するのはそれも関係しているはずだ。
マシューさんの生き生きとした国も飛び越えて、いろんな人と交流する姿は羨ましくもあり、とても読んでいてたのしい気分になる。彼の人との関わり方は、僕らがどこかで期待している、なりたいと願っている人と人との付き合い方のように思えてくる。そこには人への興味と信頼、そして彼の他者への愛と希望があるからだろう。
日本に住んでいる時の視線、世界中を旅したりする時の視線。それらはアメリカ人である彼の視線ではあるけど、当然ながらマシュー・チョジックという個人のものだ。21の物語は彼が体験した日常を綴っている。読んでいると気持ちがあたたかくなってくるのは、彼の人柄があふれでているからだろう、その世界への関わり方と視線が。世界から見た日本、日本から見た世界、どこに立場や足場を置くかで見え方は当然ながら変わってくる。常識も非常識に反転する。当たり前だと思ったことは当たり前ではなくなる世界がある。
マシューさんが出演しているテレビ番組『世界まる見え!テレビ特捜部』でのトレードマークのような蝶ネクタイ。その蝶ネクタイがほんとうの蝶々になって日常をさまざまな角度から捉えていく。そこには現実への興味と自分ではない人たちへの尽きない希望があるのだろう。
蝶々は反転する世界をひらひらとたのしそうに舞いながら、時折花の蜜を吸いにやってくる。その花はいろんな種類があって、味も花びらの色も違う。吸っているとその周辺でちょっとした事件が起きる。蝶々が羽ばたくと舞う鱗粉の鮮やかさのような21話をおたのしみあれ。
スタッフをしている「monokaki」で編集長の有田と交互に「いまさら読む名作読書日記」という記事を始めました。第一回目はスタンダール『赤と黒』上下巻を月代わりで読書日記を書いています。
インプットとアウトプットということに関しては、自分が中年になったこともあり考えるようになったのですが、ただみんなもうインプットということに興味がないのかなとは思います。教養というほどのことではないけど、過去にあった膨大なものなんか知ったことじゃないとアウトプットするというのもわからなくはないけど、それだとやっぱり圧倒的に底が知れてしまう。いろんなものが断絶し分断された世界、大きな物語が成立しない現在とインプットということは関連しているのかなと思ってます。