人生の袋小路にいる人へ(田中慎弥『孤独論 逃げよ、生きよ』を読んで)

僕が田中慎弥氏のことをはじめて知ったのは、テレビで放映された芥川賞授賞式の映像でだった。

ふだんテレビに映し出される映像は、ほぼ例外なく予定調和的なものだが、この人の佇まいは、「そういうこととは全く関係なくそこにいる」という感じだった。なんとなくテレビをつけて流し見していた僕は、「あ、人間がいる」と思って、しばらく映像に釘付けになった。

そこで彼はなにやら挑発的なコメントをしていたような気がするが、その言葉の内容とは裏腹に、「人のよさ」というとちょっと違うけど、実に人間的な何かがにじみ出ていたような気がする。「この人絶対いい人やで」と勝手に思ったものである。

本書の内容は、そんな彼の、いわば「人生論≒職業論」である。

こういう内容は、いわゆる「人生の成功者」のような人が、高みから一般民衆に語りかける、というパターンになりがちだが、この本はそうではない。確かに読者に語りかけているのだが、それは高みからではなく、「引きこもりだった自分」を通して、等身大の立ち位置から語られる。だからこっちはスッと共感できる。

「昔は引きこもりだったけど、今はそれを克服しました!」というような話を聞くことは多い。それはそれで得るものがあるだろう。しかし彼の場合、ちょっと極端に言ってしまえば、今も「引きこもりのまま」作家をやっている。そして「それでいいのだ」と言う。デビュー前だけでなく、作家になってからも、「葛藤や不安、悶々とした思い」を山ほど抱え続けているという彼の言葉は、多くの読者に安心感を与えるだろう。

彼が本書で主張するのは、「奴隷として生きるくらいなら、その場所から逃げ出して、自分の人生を取り戻せ」ということである。

奴隷というのは端的に言えば、「自分の人生において主体性を失った状況」とでも言えばいいだろうか。そして現代の社会では、「放っておけばいつしか奴隷のような生き方に搦め捕られてしまう。だから、意識的にそこから逃げていかなければならない」というのである。

「逃げる」という言葉にはネガティブなイメージがつきまとう。まるで「悪いこと」であるかのような。しかし彼はこう言って背中を押す。

「意地やプライドは余計な荷物だということを自覚してください。そんなものはどうでもいい。無様な姿をさらすのと引き換えに逃げられるのですから、安いものです。無責任のそしりを受けるのなら、それも言わせておけばいい。そんなことより、自分の命を守り、生き方を取り戻すほうがはるかに重要です。……大げさではなく、逃げることでしか救われない命もある。真剣に考えてほしいと切に思います」

これについて僕も全く同意する。「逃げる」ことは、「生きる」ための力である。そしてそんなふうに「逃げたい」と思える人はまだ救いがある、と彼は言う。もっと危険なのは、「逃げる」という発想自体に思い至らず、「与えられた環境でどうにかやっていくしかない」とあきらめている人である、と。彼の考えはこうである。

「自分が損なわれる、自分の人生を失う、それ以上の苦しみはありえない」

だから四の五の言わず、後先を考えずに逃げろ、と言うのである。そしてその後にある「孤独」と「不安」の中で、自分の人生を見つめ直せと。

「不安だろうと思います。それでかまわない。臆病風に吹かれてください」

そこで自分の目指すところが定まれば、「そこにたどりつくために費やした手間暇は、ひとつたりとも無駄にはならない」

「結局のところ自分で学び取ったものでなければ、身にならない」

これは長い人生を生きるうえで、思いのほか重要なことではないだろうか。

「わたしにはできないことがたくさんあった。むしろ、できないことだらけです。その中から、なんとかやれることだけを探してやり続けたことになる。ねちっこくしがみつき、その代わり嫌なこと、気の進まないことには手を出しませんでした。その結果、いまの作家という職業、生き方にたどりついたわけです」

そしてそのプロセスにおいては、「ある種の身勝手さ、そして頑さを失わないこと」が重要だと彼は言うのである。

本書で書かれていることは、僕から見ると実にまっとうなことだし、彼はきわめて常識人だと思う。しかし「本当にまっとうな人」ほど、不登校になったり、ひきこもったり、会社にずっと勤められない。それが今の日本の社会だろう。そんな中で、自分は人生の袋小路にいると感じている人は、この本を手に取ってみるとよいと思う。

人間とは何か。人間が生きるということはどういうことか。その問いはあらゆる学問の根源であり、生きるうえで最も大切な問いのひとつである。

だがこの現代社会において、そんなことに思いを馳せながら、矛盾を抱えずに生きることはできない。そこで矛盾を抱えずに生きているとすれば、それは自己の人間性をすでに損なっているのである。


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杉原 学
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