見出し画像

「死に方」を考えることは「生き方」を考えること(小澤竹俊『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』を読んで)

「あした地球が滅びるとしたらどうする?」

誰もが一度はこんな話題で盛り上がったことがあるだろう。小学生の妄想ネタのようでもあるが、なかなかバカにできない問いである。だって、地球があした滅亡しなくても、自分はあした死亡するかもしれないのだから。

本書は、ホスピス病棟などで2800人以上の患者さんの「看取り」に関わってきた医師による、「死に方」の側から「生き方」を捉えようとした本である。

本書のタイトルにもなっている、「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」という言葉には、きっと多くの人が賛同するだろう。

ところが、「よーし、これから毎日、『今日が人生最後の日だ』と思って生きるぞ!」と思っても、それは決して長続きしない。たいていすぐに、「明日やればいっか……」モードに戻ってしまい、「俺ってダメだなあ……」となるのがオチである。著者は次のように言う。

「常に『今日が人生最後の日だ』という意識を持つことで、日々の生活を大切にできそうな気がしますが……。残念ながら、それは簡単なことではありません。人が非日常を抱えながら日常を生きることは、ほぼ不可能なのです。……非日常というのは、とても過酷で疲れるものです。……『死』というものを意識しながら生活し続けるのが難しいのもそのためであり、『常に緊張感を持って、毎日を生きる』というのは、あまり現実的ではありません」

「それ、はやく言ってよ〜!!」という声が全国から聞こえてきそうだ。

小澤さんによれば、必要なのは「日常と非日常、両方の大切さを知り、使い分けていく」ことであり、「今日が人生最後の日だ」と想像するのは、ときどきでかまわないという。

この発見だけでも読んだ甲斐があるというものだが、いやいや、他にも大切なことがたくさん書かれている。たとえば次の文章などは、思わず我が身を振り返らずにはいられない。

「死を目前にすると、比較の価値はまったく意味を持たなくなります。……『他人よりもいい暮らしがしたい』『他人よりも幸せな人生を送りたい』と必死で努力してきた人が、病気であること、残された時間が短いことがわかったとたん、将来の夢もアイデンティティも失い、『自分の人生は何だったんだろう』と悩み始める。そんなケースを、私は今まで、何度も見てきました」

しかし彼はこのような状況を決してネガティブには捉えない。続けてこう述べている。

「人が『自分にとって本当に大切なもの』『本当に自分を支えてくれるもの』に気づくのは、まさにそのときです」

小澤さんが主張するのは、そのような「学び」の大切さである。

「苦しみをいかに解決するか、乗り越えるか、ではなく、苦しみから何を学ぶか。それこそが人生において、もっとも重要なことなのではないかと、私は思います」

他にも、「自分は、こうでなければならない」「人に頼らない」「努力すれば報われる」という信念を持って競争社会を闘い抜いてきた人ほど、人生の最終段階でアイデンティティを失ってしまう、など、考えさせられる言葉がたくさんある。

また、苦しんでいる人が自分の苦しみを打ち明けられる相手は「暇そうな人」だから、できるだけ暇そうな雰囲気を作っている、という言葉にも実に共感させられる。これについては、僕も参加した東日本大震災をテーマにした座談会で、宮崎県にある昌竜寺の住職、霊元丈法さんが同じようなことを話されていた。

「あんまり坊さんは忙しくしてはいけないんだろうな。みんな坊さんにお忙しいなか申しわけありませんと言うけれど、住職というのは、本当はいつでも待っていなくてはいけないんだろうなと思うんだけれども(笑)」(「座談会 3・11大震災が浮き彫りにした曹洞宗寺院の弱点とその対策 第2回」『仏教企画通信』第30号)

住職もやはり、人の苦しみに寄り添う仕事なのである。

「死に方」を考えることは、「生き方」を考えることにほかならない。後悔しない人生のために、いや、後悔を受け入れられる人生のために、大きなヒントを与えてくれる一冊である。


いいなと思ったら応援しよう!

杉原 学
いつも応援ありがとうございます。いただいたサポートは、書籍の購入費に充てさせていただきます!!

この記事が参加している募集