【人の価値を考えてみる】ただ在ることに価値があるという世界観を考える
どうも、ぱたそんと申します。今回のNoteは大学2年生の春休み期間を使ってやってきた「人」についての考えをまとめたNoteパート2になります。2回目のテーマは「あなたが素敵であることに理由はない」です。
1回目では、人は比べる生き物なのだから、開き直って積極的に人と比べることによって自己理解を深め、強みや弱みを認識したら良いのではないか、今は認知されていない領域で上手く人と比べられたら良いのではないか、という理想論を書きました。
今回はそこから「何かしらの強みあることがその人の価値だって考えはどうなの?」という話を展開します。そして、「人の価値には理由がない、人はただ在るから価値がある」という意味不明な結論を導くことになりました。
これを導くための「視点」は次のようなものになります。前回の記事で書いた内容は左側で上手く生きる方法。今回は左と右を別の視点で捉えられるよねって話になります。まだ意味不明かと思いますが、読んでいく中で理解出来ていくと思います。
また、今回の話は世の中に溢れている「自己肯定感」についての考え方に個人的に違和感を覚えていたことから展開していく話になります。ということでまずは自己肯定感と呼ばれているものについて考えてみます。
○「自己肯定感」について
◇ そもそも自己肯定感を上げるって何?
ずっと分かっていなかったこと。自己肯定感を上げるとか、高いとか低いとかの意味が分からないということ。
肯定ってするorしないの二択じゃないの?
「肯定感」が「高い」、「肯定感」を「上げる」って何?
と思ってしまう。肯定に「感」が付くと、途端に訳が分からなくなる。
(屁理屈なのは承知です)
なんだかよく分からないけど、自分に自信ありそうな人とか、自分のこと好きそうな人とか、前向きっぽい人にあまり深い意味を考えずに「自己肯定感が高い」ってとりあえず使っているだけな気がします。そしてそこから派生して、高い自己肯定感を得ようとすることを「自己肯定感を上げる」と呼んでいる気がします。要は、僕も他の人達も深く考えずに使ってしまうフワッとした言葉なんです。たぶん。
きっと「自己肯定感」を「上げたい」と思う人たちは、即効性のある処方箋を求めて、自分の価値を上げるための理由を追い求めてしまいます。自分の価値を考えます。何で貢献出来ているのだろうか、与えられているんだろうか、何が強みなんだろうか、どこなら人より優れているのだろうか、と。
でも僕はこの考え方には違和感を覚えます。疑問が出てきます。
その「高い自己肯定感」は何かがあることで得られるものなのでしょうか?
何かを追い求めて上がるものなのでしょうか?
人は理由があるから自己を肯定できるのでしょうか?
逆に自己の肯定には理由が必要なのでしょうか?
自分自身の価値は何かしらの理由があってのことなのでしょうか?
その理由がなくなったら、自分自身の価値はなくなるのでしょうか?
そんなことなくね?というのが僕の意見になります。
何かがあっても自己肯定感らしきものが上がることはないし、
理由があるから自己を肯定するわけでもない。
逆に自己の肯定には理由なんかいらないし、
自分の価値には理由がないが、価値がある。
これが僕の意見。
以下、それを論理的に補完してみます。
◇ 理由付きの「自己肯定感」は、脆弱だ
何か理由があって、それで自分に自信を持っているように見える人って結構いますし僕も一部そういった側面があります。でもその自己肯定感らしき何かは弱い。
例えば、
私は可愛いから、とか
俺は頭良いから、とか
僕は仕事が出来るから、とか
私は○○が得意、僕は○○が出来る、○○をやってきた、やっている、成功した…とか。
確かに、こういった理由を持つことで、「自分には価値があるんだ」と思える時間があるのは分かります。プライドも持てるでしょう。僕も、そうしてプライドらしき何かを高く保ってきた過去がありますし、今でもその節はあります。でもそれは一時的です。相対的な価値判断です。物差し世界の中で、「上」っぽいところにいる気になっているに過ぎません。先ほどの図の左側の世界観です。ほとんどの人は常にこの世界観で生きていて、きっとこれが普通です。何も悪くないし、当然の世界観です。そしてそれは前回の記事で書いた内容でもあります。
むしろ理由を持ってしまうから、その理由を裏付けるものが揺らぐと、自己肯定感らしきものも揺らくのではないかと思います。自分より「上」が出てきたり、自信を持っているものが否定されたり、「負ける」ことは散々あるでしょうから。そうして根拠が揺らされると、すぐに自信を失うし自己肯定感らしき何かも失います。
こんな感じで何かしらの評価基準での「優位性」を理由に自信っぽい何かを鎧のように身に纏い、見下して、一時的な満足感を味わい、負けて嫉妬して「自己肯定感」を失う。これが人間らしい営みなのは承知ですが、これではいつまで経っても本質的に「自己肯定感」は上がらないと思います。
どうするべきか?
確実なことは僕には分かりません。でもきっと答えはシンプルで、ただ、自分を肯定すること・自分の人生を肯定することが重要なんじゃないかと思います。それが先ほどの図の右側の「ただ在るをあるとする」世界観になります。
◇ 自分自身も人生も丸ごと受け入れる強さを持ちたい
シンプルに自分自身を肯定する、人生を肯定するとはどういうことか。
まずは自分自身を肯定するとは何か。それは上にあげたような「評価基準」とは別の次元を捉え直して、ただ、自分の「全て」を受け入れること。
出来る自分を良しとし、出来ない自分を悪とするのではない。
何かしらを持つ自分を偉いとし、何も持たない自分を蔑むのではない。
出来るも出来ないも、あるもないも、持つも持たざるも「全て」を自分として受け入れる。そこには良いも悪いもない。良い悪いという価値基準とは別の次元で、出来る出来ない、あるない、持つ持ざるを全て「在る」ものとして受け入れる。
こういうことです。
そして人生を肯定するとは何か。それは、過去の自分の積み重ね、今の自分自身、未来の自分の可能性を、ただ受け入れる。絶望も希望も、ワクワクもドキドキも、後悔も嫉妬も、感動も全てが自分。
過去から、運によって形作られた自分を自分と受け入れる。なぜか生まれてしまった自分から、なぜか才能を持って生まれた自分、才能を持たなかった自分、育った環境から文化までが自分。良し悪しとは別の次元で、ただ連続して形作られた自分が在るということを受け入れる。
こういうことです。
きっとこれには物凄いエネルギーが必要になります。「勇気」も必要になります。自分のダメな部分も、絶望も嫉妬も怒りも醜さも、全てを受け入れることになるんだから。けれど、一度、それも含めて全てが自分であるということを受け入れる強さを持てると、相対の世界とは別の世界にも身を置けて、ただ「在る」ことに価値を感じられて、心も満たされやすくなるのではないかと思います。価値は、ただ在ることにある、理由はないとはこういうことです。存在そのものに価値があるっていうのが分かりやすいかもしれません。
※ 今の僕のレベルでは言いたいことを上手く伝えきれていない気がします…が、今後の学びの中でもっと自分なりに理論を深められたら+伝わりやすく出来たらと思います。すみません。1つ絶対に誤解がないようにしたいのは、自分の負っぽい部分を受け入れるというのは「諦める」ということとは少し違うということ。「俺には無理だ」「俺ってバカだから」「私ってこーゆー人間だからさ、仕方ない」と諦めて投げ出す・言い訳に使うというよりかは、それも自分の一部としてただ在る世界観で自認し、同時に資本主義的な世界観・いつも自分が生きる世界で上手く付き合うというのが正しい方向性な気がします。僕自身もダメダメな部分が沢山あって、色々な人を怒らせたり迷惑をかけたり、自分自身を苦しめたりすることが多々あります。コミュニケーションも自己中心的ですし(気付いたら自分が気持ちよく喋ってしまい周りが見えなくなってしまいます…)、ワガママですし、承認欲求も人一倍強く、頑固で諦めが悪い。そんな自分を自認して、上手く付き合い、みんなに上手く還元するにはどうすればよいか?と内省していくのが重要なのかもしれません。たぶんね。
○ 強み弱みと人の価値は別の次元にある
先ほどから、自己肯定感という言葉を起点に、強み弱みや社会が規定する価値基準と、人の存在価値は別の次元にある(正確には別の視点を取り出して捉え直した世界)という話をしてきました。そして価値基準を理由に自信を持つのではなく、ただ在る世界で自分を受け入れることが重要なんじゃないか、と述べてきました。これ凄くややこしいのでもう一度この図を見てもらって綺麗に整理出来ればと思います。
ここの次元を分けると誰にとっても生きやすくなるんじゃないかと思うわけです。前回の記事で書いた「比較」「物差し」の世界は資本主義的であり、お仕事の世界であり、勝ち負けが付くものである。ここでは積極的に比較をして、強みも弱みも自覚して、強みを世界に還元していくのが良いのではというお話をしました。きっとお仕事の世界で言われる「バリュー」は、いかに自分の強みを仕事で還元するかってことなんだと思います。
この資本主義的な競争社会の世界観とは別に、ただ人が「在る」ことを肯定する世界観が見出せるのではという話になります。強みも弱みも、出来るも出来ないも、運も縁、極悪人も聖人も、普通の良い人もちょっと意地悪な人も、全部含めてただ人が在る世界であり、人の価値には「在る」以外の理由がい世界です。強いて言うのであれば、存在があるから価値がある。ただ素敵だから素敵という世界。(ちなみに、ただ在る世界でも競争はあると思っています。なんならそれが人間らしさだと思っています。詳しくは第4回のNoteで書けるはず…いつになることやら。)
資本主義的なお仕事の世界での「バリュー」と、自分自身の「価値」は別なんだ、というのが僕の主張になります。資本主義の物差し世界で、弱みばかりが露呈するからって自分自身の価値がないことにはならないってことです。そしてその仕事が出来ないからって仕事の担当している人が悪いことにはならないってことです。強み弱みと価値が別次元とはこういうことです。(まじでビジネスパーソンに怒られそうだな笑笑 まあでも、その仕事で弱みばかり露呈してしまうのであれば、別の領域の仕事に抜け出した方が双方の為にもなると思いますが、それと今回の話はまた別物かもですね)
もちろん、この2つは綺麗に分けられるものではないと思っています。MECEじゃねーよ!ってコンサル志望に怒られてしまいそう。きっとビジネス領域でゴリゴリやっている人には鼻で笑われるお花畑の世界観です(というか笑われたことも何度かあります)。でも資本主義的な物差しの世界に疲れてしまう人は、きっとそちらの世界で毎日を過ごしながら、息抜きに「人が在ることを肯定する世界」に戻ってくれば良いんだと思います。そしてこの世界観で自分を無条件に受け入れてくれる「友」と、非生産的な時間を共有して、その時間を楽しめるともっと良いんだと思います。(このことは後のNoteで詳しく書ける…はず)
以上のことを要約します。
人と比べることで生まれる「自己肯定感」は脆弱な「自信」の鎧でしかなく、競争社会的な世界観で生まれるもの。その世界とは別の視点で捉えられる「ただ人が在る」世界で、ただある自己を肯定することこそ、真の自己肯定なんじゃないか。そして肯定できる全ての自分の存在に価値があるんじゃないか。そして、それを受け入れてくれる人(友・家族・パートナー…)と非生産的な時間や遊びを共有することが重要なんじゃないかという話でした。
○ 余談:人が在ることを肯定する世界の根拠
なぜ「ただある世界」というものを見る視点を持てたのか?
答えはシンプルで、自分の存在を損得抜きで認めてくれる人がいることに気付いたから。何百人といるわけではないですが、ただ生きている自分を良いねと言ってくれる人がいる。そこへの気付きが、新たな視点をもたらしてくれて、あえて視点を変えて「在る」と「資本主義を中心とする競争世界」を捉えるというアイデアが降ってきました。
今はいないと思う人にも、理由がなくてもあなたを大事にしてくれる人はどこかにいるんだと思います。今はいなくても、きっとどこかにいる。信じられないかもだけど、いる。いなくても、まずは自分が認めてあげて、そして人のことも認めてあげて、損得以外の人づきあいを出来る環境が整えばきっと気付いた時にはそういう人が身近にいるんじゃないでしょうか(ちょっと無責任か…ごめんなさい)
仕事とか、損得とか、全てを抜きにして、お前が良いからお前が良いと言ってくれる人を見つけられると、「ただ在る世界」を感じやすくなるかもしれません。(何者でもない自分には偉そうなことは言えないですが、まずは自分自身に損得勘定とは別に、ただ与えたいとか助けたいとか思える精神がないと、「ただ在る世界」でお互いを受け入れ合う関係にはなれない気もしちゃいます…この与える精神性が「愛する」ということなんだとも思います。)
そういう人達と、何かの価値を生み出すでもなく、仕事をするでもなく、ただ純粋に「時」と「モノ」と「気持ち」を共有することが、もっと心の豊かさや幸福をもたらすのではないかと思います。楽しいとか、面白いとか、くだらないとか、一見どうでも良さそうな時間を一緒にすることが重要な気がします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?