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祖母の穏やかな死を見て考えたこと。〜死があるからこそきっと生は輝く〜

母方の祖母が先日亡くなった。



今日は、祖母の葬儀に参列してきた。
病を抱える私の両親を連れて。


葬儀は火葬場もある斎場でとり行われ、参列者は近しい親族のみだった。

このようにごくごく小規模の葬儀にしたい、というのは故人である祖母がまだ認知症になる以前から、ずっと話していたことなのだという。


今日集った親族は約10名ほどだった。

数年ぶりに再会をする親族もいて、それでもやっぱり血の繋がりって濃いのだな〜………と実感した。

先日の記事でも書いた、私も大好きな伯母や↓


そして、私と似たりよったりアラフォー世代のいとこ達(全員女性)とも久しぶりに話せてとても楽しかったし、いとこ達はアラフォー、そして私の母も含めその母達(叔母や叔父)は70歳前後。


酸いも甘いも噛み分けた(……?笑)中年層より上世代の人間たちが集う一族の席の会話の内容は、あちらに行ったりそうかと思えばこちらに行ったりと、それはまるで喜劇のようだった。


私の母方系の人々は、進んで前に前にと出るタイプでは決してないのだけど、基本的にみな人と接することはそこまで嫌いな方ではなく、お喋り好きな人々が多い。ばあちゃんの思い出ばなしをして、皆で笑い合った。



不謹慎なのかもしれないけど、亡くなったばあちゃんが築き上げたこの一族の笑顔が、ばあちゃんの人柄そのものを表しているような気がした。

一族の内側からひいき目に見た感想なのかもしれないけれど………


ばあちゃんの亡くなり方がとても穏やかだったので。私はこんなふうに、ばあちゃんのように自分の人生の最期も迎えたいな〜………と、そう思ったりもした。


ただやっぱり、きれいに死化粧をしていただいたばあちゃんが荼毘に付されるとき、棺桶が火葬炉に入って行くのをじっと見つめていた瞬間は、何とも言い難い気持ちになった。


ばあちゃんは100歳近くで老衰での最期だったし、
それなりの覚悟は出来ていたのでおいおいと泣いてしまう、ということはなかったけれど。


「ああ…………
こうして人間の肉体はたったの一時間半もあれば、小さな骨だけになってその人が様々を乗り越えて生きてきた肉体は無くなってしまうんだなあ…………

でも、たとえそうしてその人が亡くなってしまっても残された人々は淡々と日常生活を送り、そこにはまるでその人の人生は最初っから無かったかのような錯覚に、陥りそうにもなったりしちゃう。

人間の人生ってなんて儚いんだろう…………」

私の心の中の声


私はそんなことを一人心の中で思い浮かべていた。

でもこうも思った。

たとえその人の肉体は無くなってしまったのだとしても、その人が抱えていた想いなどはきっと、ちゃんと残された人々の中に残るんじゃないかな〜?と。


そのようなこと↑を、私考えちゃったんだよ………
そう私の六歳年上の40代のいとこ(女性・私に非常に似ている部分が多くてうまが合う、↑の記事でも登場した私の叔母の娘、一人でカフェを経営している。なかなかに強烈なキャラクターの人物。)
にそっと話をしたら、


『お前ピュアか!笑
そりゃ当たり前のことだよ。そこまで考えて。笑
やさしく育ったんかマナヒロは。』


そう言われた。

(↑昔から私を妹のようにかわいがってくれていた 超現実主義者&体育会系女子のいとこは、愛を込めてそう言ってくれていると私は感じました。)


う〜ん…………………

そうなのかなあ〜……………


皆そこまで考えたりはしないのだろうか。


やっぱり私は、いちいち人生についてとか人の生や死について、とかを深めに考えてしまうようだ。



そんなこんなで死化粧をされて、そこだけ時が止まってしまったばあちゃんの穏やかな眠る姿を目に焼き付けた私は、


死があるからこそきっと生が輝くんだな!
やっぱり生きてるうちに、やりたいように、
自分らしく生ききろう!!


そう心に誓ったのだった。


ばあちゃんありがとう。そして、お疲れ様でした。



ここまで読んでくださってありがとうございました。




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マナヒロ
記事を読んでいただきありがとうございます☺️これからも真摯に文章を書くことを追求して行きます。よろしくお願いいたします!

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