ひと玉500円で買うキャベツ
とにかく高い。何もかもが高い。こんな世界に誰がした!と心の中で悪態をつきながら、それでも私はひと玉500円のキャベツに手を伸ばす。
そこにあるのは、ずっしり重みがあり、パリッと瑞々しいキャベツ…ではない。
いつもだったら選ばないであろうシナシナとして、小玉で、どこか頼りなさげなキャベツだ。キャベツ自体が申し訳なさそうに何か語りかけてきそうだ。
しかし、選びようがない。
この500円のキャベツは残り5つなのだ。どれも似たような風貌をしているが、ここから選ぶしかない。
誰もがキャベツの陳列されている棚を素通りしていく。それも分かる。これが500円か、、と私も思う。
でも我が家には、限られた野菜しか食べない偏食児がいるから、食べてくれるであろうキャベツは貴重な栄養源の一つだ。
ちなみに、派遣で働く私の時給は1,900円。
だいたい15分の勤務でこのキャベツ一個分を稼ぐ。
高いのか?高くないのか?いや高いだろ。
そんなことを考えながらもキャベツを買う理由は、作ってくれた人がキャベツの後ろにチラチラと見え隠れするからだ。
価格が高騰する時というのは、何らかの理由で需要と供給のバランスが崩れている。
十分な大きさに育たないから、出荷ができない。
つまり、生産者からすればいつもの量を作れないということだ。本来なら得られたはずの収入がグンと減る。
いま私の目の前に並んでいるのは、あの暑さの中、雨の少ない中、頑張って育ち切ってくれたキャベツなのだ。
この子を送り出すために、農家の人は途方もない苦労をしたことだろう。たくさん出荷できないのだから、ひと玉あたりの値段を上げるしかない。
そうしないと作り手の生活が立ち行かなくなる。
偽善かもしれない。
でも、このひと玉を買うことで、来年もまた農家さんはキャベツ作りを頑張れるのかもしれない。
冒頭で私はこう嘆いた。
こんな世界に誰がした。
言い出せばキリがない。ただ、私は何かをしたのだろうか?しなかったのではないか?
私に世界を変える力など無い。
それでも、何もしないよりは小さなことでも何かが届けば良いと思う。
小さな手で、小さなキャベツを手に取り
私はレジへと向かう。