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正しさとはいったいなんだろう

バス停ではない場所でバスが停まった。
乗車ドアが開き、50代くらいの女性が一人、息を切らしながらバスに乗って来た。

普段は滅多にバスに乗らない僕だが、この日は久しぶりに妻とアルコールを伴った食事に出かけていたため、バスを利用した。その帰りのバスでの出来事だった。

なぜ、バス停ではないところでその女性が乗車したのかわかったかというと(妻はまったく気づいていなかった)、当たり前だが土地勘があったこと、僕が窓から外を眺めていたこと、車内で次のバス停の案内ガイダンスが流れていなかったことなどがあげられる。
そしてなにより、突然バスが停まったことに違和感を覚えたからだった。

記憶を辿ると、その女性はたしかに走っていた。おそらくバスに乗り遅れそうだったのだ。しかし、バスの速度から考えると、その女性のペースで頑張って走っていてもバスに追いつくことはできなかっただろう。
もし僕がバスの運転手だったとして、その女性を乗車させたいと思ったなら、次のバス停で停まってしばらく待機して、その女性を待つだろう。
ところがその運転手はそうしなかった。
バス停ではない場所で停車し、その女性を乗せたのだ。

さらにその運転手は、女性を乗せてすぐにマイクでこう言った。
「〇〇(次の次のバス停の名前)からの乗車ではなく、△△(次のバス停)からの乗車で良かったですよね?」
すると女性は、「はい」と小さな声で答えた。

詳しく説明すると、女性は、次のバス停の50mくらい手前でバスに乗せてもらったのだ。だが運転手は、そのバス停のさらにまた次のバス停で女性が乗車したかったのでは? という可能性も考えたというわけだ。なぜなら、次の次のバス停からだと運賃が変わるからだ。
だから運転手は、「△△(次のバス停)で乗せてしまうと、〇〇(次の次のバス停)よりも運賃が高くなってしまうのでお尋ねしました」と付け加えたのだった。
ここまで思い出して、あらためてこの運転手の配慮や機転に脱帽する。

しかしながら一方で、そもそもバス停ではないところで停まっていいものか? と考える人もいるのではないか、という思考も働いた。
というのは、そういうケースを実際に見たことがあったからだ。
バス停にほど近い場所で、走ってバスを逃すまいとしているのにあっさりバスが行ってしまったり、「ここで降ろしてもらえませんか?」という乗客からの要望に「バス停以外では降車できません」とさらっと言い放つ運転手が実際にいたのだ。

そういったケースで自分の要求が叶わなかった人たちからすると、先に述べた運転手の行為をよく思わないのではないか。
サービスというのは均一的であるべきで、運転手も乗客もルールに則って運行する、利用するというのがマナーであろう。基本的には。

僕はバスを降りたあと、酒でほろ酔い状態の妻にそんな話をしていた。
「あのバスの運転手さんはとても優しいね」だとか、「きっとあの運転手さんは、いつもあの女性があの時間にバスに乗ることを覚えていたんじゃないかな。だからこのバスを逃したらきっと困るだろうと思って、あそこ(バス停ではない場所)で乗せたんじゃないかな」だとか、あとは、反対意見を言う人もいそうだとか、こういうことをXに投稿する人もいるのかな、だとか……。

さらには、あんなに優しい運転手さんだけど、家ではとてもストレスフルな生活をしているかもしれないとか、だからせめて仕事中は人に優しくしようと心がけているのかもしれないだとか、いやいや実は裏の顔があって普段はひどく横柄な態度ばかりする人かもしれないだとか、そんな妄想を立て続けに妻に話したのだ。

正しさというのがわからない……とも言った気がする。
人の数だけ正義や正しさはあって、公共の場での正しさというのは特に難しい。
この日は珍しく僕自身、飲めない酒を少し飲んでいたせいもあって、少し思考も酔っていたのかもしれない。

でも、正しさっていったいなんだろう。
正しいことが正しくないこともあるもんなぁ。

今考えると、僕がこの運転手さんに対してシンプルに感じたことは、彼の優しさだった。
僕は運転手の優しさを目の当たりにして、とてもいい気分になっていた。
つまり、彼の優しさに、僕も包まれたのだ。
こういう場合、僕にとって、彼の行動は正しく映る。
けれど、人には多面性があり、どの立場で、どの場面で、どんな出来事に遭遇するかで、受け取り方も変わってくるだろう。
でも少なくとも、ルールや正しさという概念を超えた優しさに触れて、僕がその時「とても心地よかった」とうことだけは間違いない。

正しさとは――。
「心地よいかどうか」という感覚が最も正解に近いような気がしている。

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