瞑想におけるラベリング考察
はじめに
こんにちは!
瞑想実践研究科の心庵まもるです。
noteでは瞑想に纏わる情報発信を行っています。
瞑想実践の方法やその結果としての効用、また瞑想に関する雑記なども書くことがあります。
内容のベースは自身の瞑想実践に基づく研究の結果をお伝えしているものです。
時々、脱線することもありますが、お付き合い頂ければ幸いです。
また、私は著作活動も行っています。
現時点では4冊の著作をKindle(電子書籍)、POD(紙の本)という形式で出版しています。
どれも瞑想を起点とした日常にある様々な課題や問題と向き合うテーマです。
自己紹介がてら以下にリンクを張っておきます。
宜しければ覗いてみてください。
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何故、このように瞑想の本を起点とした執筆活動をしているのか。
その点については下記記事で語っています。
また、瞑想を広げる活動をしている理由については下記記事を参照してみて下さい。
前置きが長くなりましたが、以下より本編の記事になります。
1.思考と言葉
瞑想の実践方法には様々なものがあります。
その中でも大別すると二つの潮流があります。
一つは集中することに重きを置く瞑想。
もう一つは観察に重きを置く瞑想です。
厳密に言えば、この二つは不即不離でどちらも互いに関係する瞑想でもあります。
ただ、集中に重きを置けば、広く観察することは出来ません。
逆に観察を主にすれば、一点への集中は弱まる傾向になることは否めない。
このようなことが言えるかも知れません。
いずれにせよ瞑想の棹差すところは、あるがままに観ることであり、集中と観察なくして、それを実現することは困難だと言えるでしょう。
問題は私たちの心の中は雑念で乱れていることです。
それを打ち払いながら、あるがままに観る瞑想を実現するためには工夫が必要だと言えます。
瞑想の方法が多岐に渡るのは、この工夫による技法の誕生に原因があると言っても良いでしょう。
さて、今回のテーマはその技法の一つである「ラベリング」です。
「ラベリング」という言葉は瞑想、とりわけヴィパッサナ瞑想を学び、実践している方には聞き覚えのある言葉ではないでしょうか。
ヴィパッサナ瞑想は先程の大別でみれば観察を主とした瞑想になります。
自分の身体の動き、そこに伴う感覚などを観察する瞑想です。
普段は意識しない身体上の動きや感覚に意識を向ける。
そのことにより見過ごされがちな事柄に気づいていくわけです。
この時に気づいた事柄に対して言葉を付与すること。
これをラベリングと呼びます。
お店で仕入れた商品にラベルを貼るように、自分の得た気づきに言葉でラベルを貼るのです。
例えば呼吸で息を吐くとき時には「吐く」、吸う時には「吸う」とラベリングします。
意識は呼吸に向けるのですが、ラベリングをすることで、その一つひとつの動作にも意識を向けることになるのです。
集中し観察をしっかりするために今、何が起こっているのかを意識する。
そのために起こっていることにラベリングすることで意識が逸れてしまうのを防いでいる効果もあると言えるでしょう。
ヴィパッサナー瞑想では気づいたことにラベリングをしていきます。
自己を起点として感じた事、動いたこと、心の中に流れる想念なども全て言葉にしていくのです。
そのため実況中継の瞑想などと言われることもあります。
自分自身に起こっていることをあたかも実況中継しているように行うことからそう呼ばれています。
ラベリングは意識の散逸を防ぎ、深く観察していくことを可能にする。
とても便利な手法だと言えるでしょう。
しかしながら、ラベリングは本当に手放しで推奨できる手法だと言えるのでしょうか。
ラベリングの利点の裏側に潜む難点についても少し考察してみたいと思います。
2.瞑想でラベリングは必須?
ラベリングをすることで意識の散逸を防ぐ。
このこと自体は瞑想の助けになります。
しかしながら、瞑想が進むと様々な気づきが現れることになります。
ラベリングの量も増えて、段々、複雑になってくるのです。
すると、どのような言葉をラベリングするべきか迷いが出てくることがあります。
そこで不要な思考や雑念が生まれてしまう。
これが問題になるのです。
例えば息を吐くことにしても理屈では単純に「吐く」とラベリングすれば良いでしょう。
しかし、実際には吐く時にお腹が萎むのを感じることもあります。
吐く息の温かさを感じることもあるでしょう。
その時にどのようにラベリングすれば良いのか迷ってしまう。
このようなことが起こるわけです。
また、言葉のチョイスも「吐く」なのか「吐いている」の方が良いのか。
またまた、迷ってしまう。
この辺りでもラベリングを巡って意見が分かれることもあります。
言葉は精密に選ぶべきという意見。
言葉はそれほど拘るべきではないという意見。
ラベリングそのものが不要という意見など様々に分かれます。
意見が沢山あるのは良いのですが瞑想実践者には混乱してしまうこともあるでしょう。
一体、何が正しい瞑想の在り方なのか。
瞑想の方法論で余計な迷いを生み出すのは本末転倒です。
そこでラベリングに対する意見の違いに対して、もう少し詳しく考察してみたいと思います。
3.ラベリングにはルールがある?
意識の散逸を防ぐラベリング。
ラベリングは単に言葉を付与すれば良いのか。
そうではないという意見もあります。
ラベリングにはルールがあるというわけです。
では、ラベリングにはどのようなルールがあるというのでしょうか。
一つには適切な言葉を使うというもの。
例えば、右足を一歩、前へ進める時には、しっかりと「右足が前へ動く」とラベリングします。
ここで適当な言葉を思い付きでつけるべきではない。
このようなルールがあります。
もちろん、この点にも意見の相違はあり、そこまで厳密にする必要はないというものもあるでしょう。
ただ、ラベリングをする理由の一つとして物事を精密に集中して観察するという理由があるため、適当に言葉を使ってしまうのは意識の散逸の原因になる。
そのように考えることも出来るのです。
しかし、同時に言葉のチョイスに迷う原因にもなっています。
また、ラベリングの言葉を厳しく管理する理由にはもう一つあります。
それは、ラベリングが瞑想の目指す方向から逸脱させてしまう可能性があるからです。
ラベリングのルールとして敷かれているもう一つの原理は客観的であること。
瞑想とはあるがままに物事を観察することです。
あるがままに観察するということは、あくまでメタ認知の視点である必要があります。
例えば、野原に咲く一輪の花を見た時の認識を言葉にしろと言われたら「花が咲いている」となるでしょう。
しかし、自分の右足を前に出すことを認識する時、それを言葉にしようとすると「右足を前に出す」となってしまいがちです。
これのどこが問題なのでしょうか。
「右足を前に出す」ということは、右足を前に出している誰かがいるということになります。
「当たり前ではないか?」
このように思う人も多いかも知れません。
ところが、これが瞑想にとっては邪魔になります。
仏教由来のヴィパッサナー瞑想では、最終的に「自我」は存在しないということを実感することを目指す方向性として置かれています。
少し難しい話しになるので、出来るだけ簡単に述べれば、仏教では自我は存在しないということが真理として掲げられているのです。
中々、一般的には受け入れがたい発想ではあるでしょう。
しかしながら、瞑想にて全てをあるがまま、客観性を持って観察していくとただ、現れては消えていくエネルギーの流れに過ぎないことが分かってきます。
では、私たちが日ごろ、自分が居る(自我)と感じているものの正体とは何なのか?
それは幻であるというのが仏教的な結論なわけです。
ところが、瞑想でのラベリングで常に自分が居ることを前提とした言葉を使っているとどうなるでしょうか。
一層、自我の幻想が強化されてしまう。
これがラベリングを厳しくルールづけている理由でもあるわけです。
ラベリングのルールについて述べてきました。
ラベリングを厳密に扱うことで瞑想の観察を精密に行うことができる。
これがラベリングの存在意義だとするならば、ラベリングを用いない瞑想とは如何なる意味があるのでしょうか。
今度は、ラベリングをしない瞑想について考察してみたいと思います。
4.ラベリングは本当に有効か?
瞑想する際に意識を散逸させないためにラベリングする。
逆に言えば、意識を散逸させなければ良いとも言えます。
ラベリングすることで意識がある方向へ導かれることは実際にラベリングを活用した瞑想をしてみることが手っ取り早いかも知れません。
人間の心は一つの事に集中しているつもりでも、気が付けば意識が流されてしまっている。
このようなことは多々、起こります。
だから、言葉にラベリングによって誘導して上げることで意識を捉えて離さないことが有効だとも言えるのです。
しかしながら、ラベリングは必ずしも有効に働くことばかりではありません。
例えば、先のトピックでも述べたようにラベリングのための言葉のチョイスに迷うあまり、かえって意識が散逸してしまうケースもあります。
また、言葉とは思考の始まりです。
瞑想において最終的には思考が完全に止まるという境地に達することになります。
ところがラベリングをしている限り、常に思考につながる原因を抱えることになるのです。
さらに言えば、ラベリングをすることで、実際の動作や感覚ではなく、ラベリングに意識を集中してしまう。
このような結果に導かれることもあるでしょう。
意識の散逸を防ぐことは出来ても、実際にあるがままに観察するというテーマから逸れてしまう場合もあります。
このような理由から瞑想においてラベリングが不要であるとする意見もあるわけです。
瞑想時はあるがままに感じて、意識だけを対象にむけるべし。
これも一つの考え方ではあります。
では、ラベリングは不要なのか?
ここで結論を出すつもりはありません。
何故ならば、それは本来、答えがでない問題でもあるからです。
山登りの際に杖は必要か?
一般的には登山者は杖を持つことが多いようにも思います。
しかし、杖が却って邪魔になるというケースもあるかも知れません。
このことからも容易に結論を出してしまうのも浅はかであるような気がします。
ですから、最後のまとめで私なりの意見というか感想を述べて本稿における考察を終えたいと思います。
まとめ
瞑想の手法の一つであるラベリングについて考察してみました。
ラベリングは使い方によっては毒にも薬にもなる。
私自身はそのように感じています。
瞑想において極度の集中力を発揮できるならばラベリングをしなくとも精微な観察をしていくことは出来るかも知れません。
しかしながら、瞑想の初学者が実践する際にはラベリングを行う手法は有効に働くのではないかと感じています。
但し、気を付けるべきは、ラベリングはあくまで観察の補助であり、目的とは異なるという点です。
ラベリングを重視するあまり、言葉に迷い、言葉にこだわれば、おそらく瞑想の重要項目の一つである観察がおろそかになる。
故に補助輪として活用していくのが無難な使い方ではないのか。
あくまで一つの意見であり、感想です。
一つの意見を絶対と見てしまうと宗教論争のように不毛なものになります。
ですから、瞑想の本質を考えながら、自分に合う手法を探していくのが良いのではないかと思っています。
本稿での考察が何かの参考になれば幸いです。
長い文章をここまでお読み頂きまして感謝!
心庵まもる
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