ここまで進んだ日米ヒロシマ・ナガサキの和解
2014/08/17 nippon.com
米国大使の広島平和記念式典参列は4回目
今年、2014年8月6日に行われた広島平和記念式典と、9日に行われた長崎平和記念式典にキャロライン・ケネディ駐日米国大使が参列し、原爆犠牲者の追悼を行った。昨年11月に赴任したケネディ大使は、これが初めての出席。また、赴任直後の12月にも長崎市を訪問し、平和記念像に犠牲者追悼の献花をしている。
現職の米国大使が、原爆投下の日に広島、長崎の平和記念式典に参列するようになったのは、つい最近のことで、2010年のジョン・ルース大使が最初になる。広島は今回で4回目、またルース大使は2012年と13年に長崎の式典に参列している。
今や原爆を投下した側の米国の大使が広島、長崎の原爆犠牲者を追悼する姿は当たり前のものとなったが、これは10年前、20年前には、想像もできないことだった。そのくらい原爆投下に対する両国の認識には隔たりがあり、このことが、同時期に欧州で進んでいた第二次世界大戦関係国間の戦後和解を、日米間で進める際の最大の障害となっていた。このコントラストがはっきり浮き出たのが1995年の初頭だった。
スミソニアンとドレスデンの明暗
この年は第二次世界大戦終結50周年にあたっていた。米国の国立スミソニアン航空宇宙博物館では、人類初の核兵器使用から冷戦期以降の核兵器拡散の問題まで視野に入れた展覧会として「エノラ・ゲイ50周年記念特別展」を企画していた。ところが、退役軍人組織、連邦議会さらには民間団体などから広範な反対が巻き起こり、結局、この企画展は中止。博物館館長も辞任に追い込まれた。
ところがその2週間後、同じく第二次世界大戦で連合国の大規模無差別爆撃を受け、万単位の犠牲者を出し、市街を破壊されたドイツのドレスデンで開かれた「空爆50周年追悼式典」にはドイツの要人だけでなく、なんと爆撃を行った旧連合国からエリザベス英女王の代理であるケント公、ピーター・インジ陸軍元帥、米国のジョン・シャリカシュビリ統合参謀本部議長が参列したのである(※1)。この差はどこから生まれたのだろうか。
謝罪はしない、しかし追悼は行う
スミソニアンの展覧会企画で、特に反対側の琴線に触れたのは、広島と長崎の犠牲者数の表示であったという。一般市民の大量虐殺を米軍が行ったという見方、もしくはそうした見方をされるかもしれないという可能性に対する強烈な反発が根強かったのである。米国では日本との戦争は正義の戦争であり、広島、長崎に対する原爆投下は、その直後に計画されていた日本本土上陸作戦で想定される連合国側の犠牲者の命を救うために必要なものだったという見解が、いまだに支配的である。一方、日本でも平和団体から保守派に至るまで、原爆投下を戦争犯罪として問う声が根強い。
ところが欧州では、再統一したドイツが東側各国と最終的な関係正常化を進める際に顕著になった考え方だが、戦争責任は引き続き厳しく追及していくものの、それとは別に、戦勝国、敗戦国の別なく戦争犠牲者の存在を認め追悼するという形の戦後和解がおこなわれるようになった。「ドレスデンの和解」はその一例で米英の出席者は決して敗戦国に謝罪をしたわけではなく、ドイツもそれを求めたわけでなく、ただ一緒に個々の犠牲者を追悼したのである。将来に向けて双方の感情のトゲを抜こうとしたのである。
「8回、9回の表裏を残す」のみになった和解への道
ただ日米間でも、その後、広島、長崎を巡ってゆっくりではあるが和解の動きが見え始めている。2004年1月に、ハワード・ベーカー駐日米国大使(当時)が広島を訪問、原爆死没者慰霊碑に献花した(※2)。この前月、日本はイラクに陸上自衛隊を派遣しており、1990年代以降、いったん「漂流」とまで呼ばれる状況にまでなっていた日米関係が、小泉=ブッシュ時代に、最も親密になったことを象徴する出来事だった。
これ以降、日本側からドレスデン型の和解を提案する声が上がっている。ヒロシマ・ナガサキとハワイ真珠湾にあるアリゾナ記念館で双方の首脳が相互献花を行うことを提案している松尾文夫・元共同通信ワシントン支局長によると、ブッシュ政権側にも比較的好意を持って受け取られていたという。2008年の洞爺湖サミット前の記者会見で、この件について質問されたブッシュ大統領は「興味深い」とまで発言していた。スミソニアン騒動のころに比べると隔世の感がある。
また、同年にはG8の下院議長会議で広島を訪れたナンシー・ペロシ米国下院議長が、ホストであった日本の河野洋平・衆議院議長の提案によって原爆死没者慰霊碑に献花。河野議長は、その後、返礼としてハワイの真珠湾にあるアリゾナ記念館を訪れ献花している。両議長ともそれぞれの国の外交儀礼上の序列3番目にあたる(米国は、大統領、上院議長たる副大統領、下院議長の順。日本は、天皇、内閣総理大臣、衆議院議長の順)。このとき野球でいえば8回、9回の表裏を残すところまで来ていた。
何が“時期尚早”なのか?
バラク・オバマ米国大統領も2009年に初来日した際、記者会見で被爆地訪問について聞かれ、「できれば光栄」と答えた。
現実には、事務方レベルでこの訪日の機会での広島訪問の可能性について検討されたようだが、日本の外務次官が「原爆投下に謝罪するために広島を訪問するという考え方は成功する見込みがないもの。初来日の際にそのようなプログラムを加えるのは早すぎる」と判断し、沙汰やみになってしまったという。その間の事情は野田政権時代に国会で追及されたが、外交問題ということで詳細は公表されなかった。しかし、現在なお日本国内には左右ともに「責任」「謝罪」を追及する声があり、これでは「分け隔てない追悼」というドレスデン型和解にたどり着けないことも事実である。
ドレスデン型和解の主唱者である松尾氏は、オバマ大統領を取り巻く米国内の政治状況から「任期内の被爆地訪問は難しくなった」とみている。しかし、オバマ大統領初来日以降、駐日大使の平和記念式典参列は続いており、日米戦後和解の最大のトゲが抜かれる道筋はまだ途絶えずに続いているとみていいだろう。