売買よりも贈与 / 贈与論から考える #5
▶︎ 概要
贈与や交換は、社会の中でどのような意味を担っているのか? モース(1872-1950)は、ポリネシア、メラネシア、北米から古代ローマ、ヒンドゥー等の古今東西の贈与体系を比較し、すべてを贈与し蕩尽する「ポトラッチ」など、その全体的社会的性格に迫る。「トラキア人における古代的な契約形態」「ギフト、ギフト」の二篇と、詳しい注を付す。
*何言っているか理解しづらいけど、自分的には、
「昔の民族同士の贈与形態やその背景を追っている」と解釈しています。
*集団間での給付体系をここでは「ポトラッチ」と呼んでいる。
▶︎ ピックアップ&雑記
贈与は必然的に信用という観念を伴うのだ。経済に関わる法は、物々交換から売買へと進化した訳ではないし、売買にしても、その場での支払いから一定期間をおいた支払いへと進化した訳でない。(p,212)
なるほど。あくまでも交換がメインだと。
本当に、貨幣の様な存在もあり商売と似ているが、あくまでも財という資本を獲得してさらなる資本を生み出すためではなく、お互いの関係性のために行っていたんだと。
それぞれのさらなる豊さよりも、お互いの信用を築いたり、力の誇示の方が重要事項であったんだなと。
売買ではなく、あくまでも贈与が目的で、その間を取り持つ手段として、売買が存在していた。
この交易は高貴なものであり、事細かな作法もあえば気前の良さも必要とされる。ともかく、その場でただ利益を上げる事を目論むというのは心得違いであって、その様なやり方をした様なものなら、極めて強い侮蔑を浴びせられるのである。(p,215)
お返しがもらえるとの期待をして欲しくないがために、相手の財を燃やしたり破壊する事があるとの事ですが、現代から見れば、つくづく素直ではないなと思うのですが、
古代は利己的な面を見せてしまうと、社会的な風習が崩れてしまう、つまり素直になる事で、自分の地位を上げる利己的な面が目的となって、風紀が乱れるのを防ぐために、この様にしたのではないのかと。
みんな利己的には思うけど、それを見せてはいけない、というか霊が備わる事で思う事すら防いでいたのだろう。
この空気感は果たして、心地よいものなのか、コロナの自粛警察の様な空気感なのか、どうなんだろう。
ポトラッチにおける破壊の慣行には、さらに2つの動機がある。
一つ目は戦争というテーマである。(中略)二つ目は供儀である。(p,220)
戦争とは、財においてのことで、相手の財を殺し、自分の財も殺し、他人が獲得出来ない様にする。相手に贈与をしてお返しを求めるか、相手が返せないほどの財を贈る事で、相手の財を間接的に殺すのである。
例えば、ある部族がカヌーで来たら、そのカヌーを破壊して、それよりも立派なカヌーをお返しに与える儀式がある。
供儀とは、財には生命が備わっているからこそ、財を破壊して、霊に引き渡さないといけないという事である。
本書を読み進めてて思う様になったのは、闘争とか相手の財の破壊は動物的な本能に基づいて行っているというより「名誉」なんだと。
生命が生まれて狩猟民族時代に「名誉」なんて気にしていたのだろうか。その時代、共に行動していた少数の部族の中であったかもしれないが、それどころではなかっただろう。
でも農耕が始まり出すと人との関わりが増える事で、勝手にこの「名誉」というのが現れたと思うと、すごく不思議な話だなと。
確かに、マズローの5段階欲求でどの様に生まれるかは分かるが、なぜ生まれるんだ。
これは仮説ですが、人は何かしらの「役割」を求めていて、何か能力を示せたり、仲間に貢献出来たりするのが、生依存を保障された人々にとって、何よりも重要な事だと。
周りとの違いを感じる事で、自分や自分たちは、自分(たち)らしく振る舞えている。唯一無二の存在なんだと証明するために、何かしらの「名誉」を手に入れる。
名誉は良い悪いかは分からないが、それは本質的ではなくただの人の思い込みだという事は間違いない。
あくまでも自分たちが想像の中で勝手に作ったゲームの中で上手く狂喜乱舞する事が、人にとって生きているという事なのかもしれない。
だって、お金を稼ぐ事も、社会を良くする事も、人間しか良いと思ってないのだから。
昔から相変わらず、不思議な世界だなと思いました。
▶︎ 過去アーカイブ
・贈与論から考える #1
・贈与論から考える #2
・贈与論から考える #3