父のmemoremo③:最期のとき
父のmemoremo①:ご挨拶、闘病のはじまり
父のmemoremo②:病との闘い
に続く、③最期のときです。
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3月7日(土)にがんセンターを退院してからは、在宅医療・看護の病院にお世話になり、とふたりで穏やかな日々を過ごしていた父。
しかし、父の最後の1週間は、坂道を転がり落ちるような勢いで悪くなっていったのです。
足がなかなか立たなくなってきたことから、「ああ、もう長くはない」と母とわたしは悟りました。
4月に入ってからは、父は足が立たないけれど自分でトイレへ行きたい!と母を困らせ。
4月9日(木)に、母も同室に泊まれるタイプの部屋へ入院。
父の意識がハッキリしている間に娘たちを会わせておこうと、4月10日(金)の早朝に病院1階の談話室にて父と面会をしました。
首まで支えられるタイプの車椅子に乗って現れた父の脚が棒のように細く。
娘たちと息を飲んでしまったほど……。
それでも、父は娘たちの姿を見て、「こんな子、知らん〜(ニヤリ)」といつものように軽口を叩いたりしていたんです。
病院では、自宅では難しくなっていた入浴をさせていただき、ボタンを押したら体内へ直接鎮痛剤が入るようセッティングをしてもらいました。
母も体と心が休まり、ふたりにとっては救いとなった3日間の入院だったようです。
4月11日(土)に退院した時には、父は朝から割と元気に喋っていて。
退院してきた後に、離れて暮らす弟(父にとっては息子)一家とビデオ通話を楽しんだりしました。
夜、わたしが泊まっていこうか?と言った時にも、「(泊まらなくて)かまんよ」と答えるほどの元気があったのです。
容体が急変したのは4月12日(日)の朝。
8時頃に母から電話があり、「パパの呼吸がおかしいんよ!」と。
わたしは慌てて身繕いをし、実家へ向かいました。
到着すると、うっすら白目で、パクパクと大きな呼吸をしている父。
酸素濃度はもう機器に反応しません。
医師に連絡して待ちながら、母とわたしは左右に分かれて父に呼びかけ、手を握って温めていました。
到着した医師は、慎重に丁寧に父を診てくださり、「トシオさーん! よう頑張っておいでる!」と手をさすりました。
その手を止めて立ち上がり、わたしたちに告げたのは
「よく頑張っておられますが、今、峠を登っておいでるところです。
今日……今日のお昼頃ではないか、と思います」
という現実。
お昼って?!早すぎない?!と思いながら、医師と看護師を見送り。
母と次女と3人で父を見守っていたのですが、次女がほんの15分ほど買い物に出た……
その間に、そのときはやってきました。
口腔清浄スポンジに日本酒を染み込ませて父の口へ持っていき、
「朝から酒とか、特別やで!(笑)」
と話しながらわたしが呑ませたら。
ゴクッ!と音をさせて呑んだのです、大好物の日本酒を。
その後、父はうっすら開けていた目をぎゅっと閉じました。
しばらくして父を見ると、息をしていない!
母とふたり、驚いて父の胸に耳を当ててみましたが、何の音もしない。
体はまだ温かいのに、息づかいがない。
お昼どころか、あっという間に旅立っていってしまった父……
せっかちな父らしい、最期の瞬間でした。
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④:父よ、天国で安らかに、へと続きます。