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7月12日 ちからがないとアサーティブにはなれない。子供や老人はどうすべきか。ユーモア、知性、高貴、自己開陳、位しか防衛策は思いつかない。

”吃驚した”という表現が嫌いだ。

基本自身が出会った出来事をバカにしたり、出来事の行為者の”常識のなさ”を(無意識の時もあろうが)非難する感触・語感があり、

いわゆる”マウンティング”の一種だと感じる。

そしてそこに無意識な決めつけ、いわゆる”悪意がない悪意”を感じて、そういう表現をする人物とはあまりかかわりたくない、と思うのだ。

いわゆる「コロナで外出さしひかえ」にいやいや従って、したがってない県外ナンバーの車に落書きをしたり投稿したり、という人種の相似形であろう、同調圧力がこういう奴らにより醸成されるだろう、とさえ思っている。

いわゆる新聞の頭書などでみかける気がする。何十年もいらいらしてきたが、今もいらいらしている。

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そういう気持の時に必要な能力・状態・技が”アサーション”だろう。状態、といえるかわからないが、自身の立場をきちんと伝える胆力、というのがわたし理解だ。

基本、平等に、冷静に、ということが求められようが、ここ”地球で一番同調圧力が高い”地域である日本では、まあ、「冷静に喧嘩売る」ということに近いだろう、まあ、気持ちの上では。

私は子供の時から押し付けられるのが大嫌いで、まあ、だれでもそうだろうが、いわゆる”なめんなよ”モードで押し付けをはじく、ということしか対策を思いつかなかった。

まあ、子供や学生の時は。

人は人をまずは外見で判断する。そういう意味では「人は見た目が9割」というのは真理であろう。

外見、例えば子供の身体に宿る老成した気持ちは外からはわかりにくいし、わかると面倒だったりもする。

老人もそうだろう。自然の摂理で衰えた身体から受ける印象は大きなものだ。

両者ともアサーティブな、ある意味対等な関係構築は難しかろう。

ヤンキーや暴走老人はそのあたりのストレスが主な発生理由なのかもしれない。

難しいものだ。

外見から不利な表面世界、一瞬の世界で、アサーティブに過ごすのは難しい。
継続した集団の中にいれば、ある程度の変化は望めるのかもしれないが。。

子供や老人のように、外見からアサーティブになりにくい属性の場合、いったいどうしたらいいのか。にじみ出る表情のすばらしさや高貴さ、あるいは滑稽さ、溢れるユーモア、知性。こう言ったものぐらいしか対処法は現状思いつかない。

(私が筋トレ好きなのは、実は”なめられない”という自己防衛の面がそもそも大きかったような気がします。。。本などを読んで善き感想を持った)

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豆象屋
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