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6月12日 本質というものは無くて、あるのは縁とサムシング。

と井筒俊彦さんは「意識と本質」で述べられる。

本質があってほしい、というのは、この世で生活する分には希望としてあるのだが、どこか心もとない気もするのものだ。

境界はない、全ては一である、という言い方は、本質がない、全ては縁である、という言い方の逆の言い方である。

名前を付けることで、一の中から「仮で区別された気がする」。

だが、名前をつけた文節が、本当に区別されているわけではないのだ。

全ての存在が、結局はひとつの一番小さい粒の集まりである。つまりは「縁」。

小さい粒と、その「集まり」の差はない。集まったことで、小さい粒と別のものにはならない。

なので、小さい粒が、「全」であり、「神」であり、「一」であり、存在のすべてなのだ。

それが「ない」ということは無い。なので、「無はない」。

宇宙は膨張しているのかもしれないが、膨張する「先」が意識、つまりは「存在でないところ」であるのであれば、そもそも「存在」とは「意識」と地続きのものとなるではないか。

つまり、存在とは意識である。

意識は存在を含む。


割り切れないこの感覚を追求するのが「禅」である、と井筒さんは言う。


割り切れないことを、まずは割り切れないものはあるとみて、そこで諦めずにむしろ肉薄する。精神で。全身全霊で。肉薄する結果、なにかが「わかる」ことはないだろう。

わかろうとする自分がある。自分とは、「分けられた、割り当てられた、全体のうちの仮の一部」といったらいいだろうか。

いつか還るだろう。

全に。

一に。

(朝から妄言すみません汗)

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