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3月7日#日記 シュタイナーと禅と鈴木大拙と全と一とエックハルト。そして宇宙とコスモスとユングと池田晶子。そして村上春樹。

村上春樹の短編、「ドライブ・マイ・カー」を映画化したものが、話題である。

私は最近になって村上春樹を少しずつ読んでいる。一部のものは再読となる。そしてその中でたまたま今週借りた、「女のいない男たち」という短編集に、この「ドライブ・マイ・カー」が含まれていることを知った。

今朝、読売新聞(そう、読売の読者です)をめくると、この短編はこの短編集に含まれていますよ、という親切な宣伝があることで気づいたのだ。

私は村上春樹の書くものは、基本どの作品も好きなのだが、あまりに人気がありすぎるので、なんとなく読まないまま来た、というのが正直なところだ。

みんなが読んでいるものを読むのはくやしいような、妙なプライドがあるのだろう。売れていてうらやましい、という嫉妬もあるのだろう。

だが今となってはさすがに村上春樹の長編も図書館で普通に借りることができるようになった。それは図書館でおおく蔵書されている(こんな言い方はあるのかな?)というか、多く保持されている、ということも大きい。

いまは市内図書館の本を融通してくれる。ベストセラーで旬が過ぎれば、市内で10冊や20冊持っているケースもある。そうすると借りたいときに借りることができるのだ。

村上春樹がどうして日本で、そして世界でこれほど受け入れられるか、というのは、いろいろな理由(文体をその時可能なベストまで研ぎ澄ませて、読みやすさをとことん追求する、という村上氏の姿勢は多分その大きな理由の一つであろう)があるのだろうが、個人的に一番の理由は、村上氏がその物語を、自身の心の地下室の、そのまた下から出てくるものから紡がれていることだろう、と思っている。

全ての人間というものが持っている業、魂の癖、ユングのいう共同無意識のようなものから浮かび上がってくるものを、掬い上げて物語とすること、そのことを感受する魂(もちろんすべての人が感受するわけではないだろう)が意外なほど多い、ということだろう。

村上氏は、できたものがたりを一番先に奥様に見せて意見を聞く、という。なんというか、身近にそうした意見を求めることができる人がいる、ということが得難いことのようにも思う。

わたしにとっての小説は、「秘めて読むもの」だからだ。

こんな小説を読んでいる、ということで、共感を得た経験が人生でほぼ皆無なのである。

マンガならまだある。

だが、絵を描くことで、その絵について語り合うようなこともほぼなかった。

読むこと、書くこと、考えることは、私にとって全く個人的なものにならざるを得なかった。別に一人で考えたり、制作したいわけではないのだが。

いい、悪いの話ではない。すくなくとも小説や本を読むことは、その作者と語り合う行為である。1対1には、少なくともなっている。

自分で絵をかくこと、あるいは文章をかくことはそうではない。完全に、孤独な行為となる。なので、匿名以外では人に発信することは怖い、という思いがある。

村上氏はそうではない。奥様が最初の、そして最良の内の一人の読者としてそばにいるわけだ。

心の地下室の更にした、という表現に対し、私は表面的な反応ではない、自身の魂に通じるものがたりを書く、という風に受け取っている。地下一階の、表面的な感情を描く小説には村上氏は興味はない、とおっしゃる。別にそのような小説を馬鹿にするわけではない。ただ自分では作ることができないだけだ、とおっしゃる。

そのことを述べる人は世界にはほかにも何人もいただろう。

例えば鈴木大拙の「大乗仏教」。あるいは「禅」。禅の精神にもつながるマイスター・エックハルトの教え。グノーシスの教え。

多分ゴーダマ・シッタールダやイエスもまた、同根のところを説かれたように思う。ソクラテスやプラトンも、そうだろう。

最近ご縁があって、翻訳者の高橋巖氏による”シュタイナーの「ミクロコスモスとマクロコスモス」を読む”という講座をWEBで受けている。

コロナは大変なことばかりであるが、さまざまな変化を、激しいスピードで生むことになった。例えばWEB講座。これはコロナがなければなかなか浸透しなかったであろう。10年分位が一気に実現された感じを持っている。

ご縁である。御年93歳の高橋先生から、同じ年生まれの「澁澤龍彦」の話がでれば、まるで澁澤が目の前で講演しているような気分になる。そもそもWEBで目の前ではないけれど。

高橋先生は、こうしてリアル(当然リアルの教室に参加されている方もいる様子)とWEBでシュターナーの本を読めることがご縁であるとおっしゃる。縁、という言葉の本質をみた気がしている。

シュタイナーについては、今まで詳しく学んだり、著作を読むことはなかった。正直、どうしてもとっつきにくかった感じではある。だが鈴木大拙を読み、神智学の存在を知り、この宇宙のことではない宇宙のことを夜な夜な酒瓶を片手に飲めば飲むほど冴える頭で考えられた池田晶子さんの著書を読み、などしていると、これはたどりつくべくしてきたのかな、という感じもある。

そこで語れる言葉の端々から感じる。前回は京都学派の話も出た。妙好人の話も出た。これは鈴木大拙にも通じる気がする。

途中から参加の2回目であり、まだまだ理解が追い付かないのだが、とても楽しく聴講している。

(シュタイナーの言うミクロコスモスは、村上春樹の言う地下2階、と通じるものがあると思っています)








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豆象屋
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