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思い出せないけど、確かにあったもの

前編

いつ どこで撮られた写真なのか わからない。

ファイルの中にあった 黄金色の夕焼け。

この頃の私は、悲しいことに 色んな事を 次から次へと忘れてしまう。小さな文字で、商品の隅っこに書かれた注意書きも 見落としてしまう。先日は、IH調理もできる小鍋を買いにいったのに、ガス火専用のものを買ってしまって大いに落ち込んだ。さっきまで覚えていたのに、、、ただ、不思議なことに 遠い昔の風景は、妙に鮮明に ふいに思い出されたりするのだ。

海に沈む夕日には、何度か遭遇したと思う。日は登り、沈む。毎日繰り返されていることだけれど、その都度 違う。一度として同じ一日はないし、 全く同じ夕景に出会うことも ない。

残念乍ら、写真を撮ったときの この夕日を写真に撮ろうと思った自分自身を 見つけ出すことは ついにできなかった。

几帳面なひとであれば、写真に注釈をつけて残したり、日記をつけているかもしれない。私は、親にも愛想尽かされる無精者で、昔から 日記や小遣い帳は続いたためしがなかった。整理整頓も苦手だから、暗記した事柄を綺麗に頭の中の引き出しに収めることができず、模造紙に書きなぐったような記憶のそこここを探して、テストを乗り切っていたので、当然 今はもう ほとんどのことを忘れてしまっている。しかし、忘れようとしても忘れられない ほんのわずかな切れ切れの想い出は、頭のどこかに棲み着いていて、何かのきっかけで ふと思い出されるのだろうか?

               

彼岸花

彼岸花。 この花は、私の中では童話「ごんぎつね」のお話と結びついている。秋の日の 田畑の畔に 赤い彼岸花が帯のように咲いている中を お経を唱えながら進む葬列。悲しい結末、別れのイメージ。夏から秋へと季節が流れ、ふと 気づくと道端に咲き 花が枯れるとばたりと茎が倒れ スッと姿を消す。そういえば 花を摘んだ記憶がないな と調べてみたら 全草に有毒のアルカロイドを含み、モグラやネズミを忌避する効果があるそうだ。子供が誤って触らないように 地方によっては 死人花などの不吉な名で呼び慣わす。

近所の河原の 少し開けた場所に ハンノキが ぽつぽつと立っている足元にも 彼岸花が、毎年咲いては枯れていく。かつて この場所にテントを立てて住んでいた人がいて 小さな植木鉢をたくさん育てていた。屈んで 花の手入れをしていた小さな背中をよく目にしたのだが、あるときテントの周りに規制線が張られ、しばらくたつとテントや植木鉢は片づけられた。  「亡くなられたんだな。」  秋が来て、平らかになったその場所に、赤い彼岸花が咲いていた。もともとそこに球根があったに違いないが、    「この場所が好きなのです」と言っているように 私には思えた。今年も 赤く帯成して咲く花を見ると そんなことを思い出す。

エノコログサ

全くの持論だが、記憶があやふやになってくると、心が動く振幅も小さくなるのではないか。それが 人生経験のもたらす「落ち着き」なのかもしれないが、喜怒哀楽という「心の彩り」を求める気持ちは、くすぶっても決して消えないのではないだろうか。

思い出せないけど、確かにあった。目に見えること以外のことは、元々あったのかさえ定かではない。記憶は、必ずしも正しくない とくると、「調べたらいいじゃん。」となるけれど、事実はわかっても、その時の心模様がどう今につながっているのか は、わからない。           

小さな何か が心に起こった。ささやかな変化をたどってみると、少し前の自分に遭えるような気がする。昔好きだった本をもう一度読んでみようか。変わらないな、と思うかもしれないし、老成したとがっくり来るかもしれない。その、心のさざめきを忘れないように 今度こそ 備忘録を残そうと思う。記憶、そして 時間の流れと ささやかな変化 について、小川洋子さん の幾つかの小編の感想とともに 2回に亘って書いていきたい。

せんだんのみ

小川洋子さん作の長編では、「博士の愛した数式」が最もよく知られているのではないだろうか?本屋大賞を受賞し、映画化もされた。私の大好きな一冊である。

しかし、小川さんの作品の中では どちらかというと少数派に属するタイプ なのではないかと勝手に思っている。同じく長編「ミーナの行進」も大好きで 何度も読んだ。が、登場人物が多くおまけに個性的で、小中学生の夏休みの読書感想文の題材としては、難しいと思われる。感動する、その熱い思いが何なのか、言葉にするのが難しいし、読後は、ただ優しい喜びに浸っていたいのだ。他の作品においても 小川さんは 独特のタッチで ひそやかに変わっていく、ということについて 記憶と絡ませて ふんわりと表現し 不思議さと温かさを醸し出している。なぞ?が残るところが まさに 小川洋子作品。なかでも、

息子が 中学生の時に 感想文を書こうとして あきらめた小編。私も読んだが、なぜかいつまでも心に残っていた一作で 「竜の子幼稚園」 (新潮社刊 「いつも彼らはどこかに」より)を取り上げてみたい。因みに その年の息子は こちらも児童書としては有名な「カラフル」を読んで感想をまとめていました。

「竜の子幼稚園」

タイトルは幼稚園だが、幼稚園児が主人公の話 ではない。       病院の調理室で働いていた女性が、顔見知りの患者さんに紹介され    身代わり旅人 となって一人旅をする。彼女のこれまでの半生が描かれ、まるで 羽が宙を舞うように 彼女は物語の奥へ消えていき お話は終わる。

身代わり旅人とは、以下引用「何らかの理由で旅ができない人のため、身代わりとなる品を(身代わりガラスの)中に入れ、依頼主に成り代わって指定のルートを巡る」身代わりの旅人。さらに 引用すると「仕事を始めて最初の依頼は、余命わずかな老人が亡き妻と訪れた64年前の新婚旅行先をたどる旅で、身代わりガラスの中には当時の二人の写真を入れた。統計的にこのパターンが最もポピュラーと言えた。」

作中、宿の描写が清々しく、このところ旅らしい旅をしていない私に、高原の 光溢れる朝の風景を思い出させてくれる。光にきらめくガラスの首飾り。ガラスの中に身代わりとなる写真や人形を入れる とは、かなり前近代的で、 今であればビデオ通話しながら、とか動画を撮って送る とかできそうなものだ。だがそれでもなお やはりこの場合 それはそぐわない。 透明な小さなガラスの小瓶に 誰にも話したくない 心の底の秘めやかな願いを詰めて 託している。                      本当は 切り離したい 忘れたい。過去は 時に辛く重い。       まっさらな 身軽な心に戻りたい。想いは きれいに消えてなくならないから、旅人に託すという儀礼を経て やっと 思い出を自分の外に、ガラスの小瓶に移して眺めることができるのではないか。

過去の後悔や悲しみは 多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。

忘れる ということは、脳の自浄作用でもある、らしい。が、私のように しょっちゅう忘れてばかりでは、忘却を有難がってばかりもいられないのだが。 

身代わり旅人の彼女は、消えぬ悲しみを抱えていた。3月3日に生まれた弟は、5歳の時 幼稚園の滑り台で カバンのひもが引っ掛かり窒息死してしまう。弟は、とても賢い子で、5歳にもならないうちから文字や数字を理解し、3月3日の印字がある商品の外袋を大事に宝箱にしまっていた。その弟の可愛い後ろ姿は、生き生きとしている。それなのに 突然死んでしまった。画面の乖離が際立ち 読んでいる私はビンタを張られたように息をのんだ。 彼女はいつも 弟が傍らにいるように話しかけながら そっと生きてきた。誰にも告げられない きっとわかってもらえない。手に入るもので 欲しいものはないんだよ。弟に会いたい気持ちを 自分の心からガラスに移すことができずにいた。

淡々と旅という仕事を続ける彼女は、いつも弟へのかなわぬ思いと共にあった。「気楽な仕事」とあるが、定年後の全く違う職種への転職で「冒険」してみたのは結果的に正解だったのだ。定年間近でnoteを始めた私にとっては心強い流れ。そして旅の終盤 なだらかな丘に差し掛り飲み水が切れて困っていると初めて会う人から声をかけられた「いいお天気ですね」その人も身代わりガラスを身に着けていた。後編につづく。

続きは、次回。忘却、別れ について更に考察します。

お読みいただきありがとうございました。おさんぽでした。



   



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