私の悩みと仏様
こんにちは、siroです。
悩み事が消えました!
昨日は暗めの記事を出してしまってごめんなさい🙇。
悩み事って、目を合わせると消えていきますよね。
悩みは雰囲気なのかもしれません。
それが課題に昇華されるとき、
不穏な雰囲気はささやかな希望に変わっていきます。
でもやっぱり、もやっとした嫌な悩みと裸で向き合うのは勇気のいること。
ってことで助っ人を用意してみました。
それは、仏教の本です!
っていってどんどん記事を書いてたんですが、
ちょっと長くなったので、急遽二部構成にします!
前編:仏教の基本的な教え
後編:私の悩みとその解決
続き
『いちばんやさしい仏教徒お経の本』
っていう本。
私、宗教とかあんまり興味がなかったけどなぜか借りてて。
ちょっと前におじいちゃんのお葬式があったからでしょうか。
ともかく、体調は良くなかったけど読み進めたら、
頼れる考えに出会えたのでまとめてみました。
※サクッと読んでまとめたから偏見だらけかもだけど、ふぅん程度に眺めてください!
基本理念:無我
”あらゆる実体は存在せず、それらは錯覚だとする教え方。”
いかにも仏教って感じ。
もう一つ、仏教の理念を挙げるとすれば、
”中立的な状態を目指す。”
幸せでも苦でもなく、中立。
これは、”四苦八苦”という、
「世の中って大体苦しいことばっかりよねぇ」
っていう考えがあるからこそ
安定した中立に戻すことに価値を見出しているんだと思います。
また、中立=0、ある意味”無”だから、無我に近い考え方ともいえると思います。
そして、仏教は”無我”の考え方を深めていきました。
代表的なのが下の二つ。
諸行無常:世の中はすべて移り変わり、不変なものはない。
悪いほうにも良いほうにも転がり、
どっちに転ぶかの確率は不明(五分五分)。
→いつも中立的。
また、全てが移ろっていくから後悔も執着もしなくていい。
人生の刹那性、”今”という実体の無意味さ
→現状の中立さ。
私には、
「何しても目まぐるしく変わっていって、良いことも悪いこともいずれぐちゃぐちゃになるから、あんまり気にすんなって!」
っていう風に聞こえました。
諸法無我:我(実体)は無く、関係の中に全ての物事が成立している。
例)自分:自分と他者との関係の中に、自分という区別の塊が現れる。
今使っているパソコン:私のパソコンに対する観測の仕方、捉え方。
⇒物理次元の客観的な事実とは別に、
視点が無数に存在する以上、捉え方(=対象)は変わり続ける。
→関係(視点と対象の位置)を基に対象が成り立つ。
だから、客観的な事実(に意味)がない以上、捉え方は無数、心持ち次第。
「捉え方で変わるから、これが事実!っていうのは無くて、故にすごく自由だよね、世の中。」
って感じでしょうか。
どちらも一貫して、”無”に対するアプローチとして読み取れますね。
以前読んだ本で
「悟りを開いた人は自分と外界の区別ができなくなる」
っていう風なのを読んだことがあります。
多分、私たちの想像する”無”とはだいぶ違った感覚なのかもしれませんが、
”すべてが自分になる”っていう考え方にも、どこか”無”の香りを感じます。
すごく話が抽象的ですが、本質的故に自分の悩みにもすっと入ってきます。
何か”引き”の考え方として仏教的な考え方をしてみるっていうのも素敵かもしれませんね。
後編に続きます~。
もし良かったら読みに来てくださいね!
thank you for reading~👋…∠‾❀
四諦八正道(したいはっしょうどう)、締まってる。
※後編は9/5の夜に投稿するね!