『バベルの塔』神様と悪魔の子
小さい頃私は、新約聖書や旧約聖書、ギリシャ神話など物語が大好きで、何度も繰り返し読んでいました。
その中でとても印象に残っているお話の1つが『バベルの塔』
簡単に説明すると・・・
むかしむかし。人は同じ言葉(言語)を使って、みんなでまとまって暮らしていました。
人は生活の中でたくさんの工夫を考えました。「この技術を使かって高い塔を立て、みんなに名を知らしめたい!」
たくさんの人が集まってどんどんどんどん塔は高く高く作られていきます。
その様子を空から見ていた神様。この塔をこれ以上高く作れなくする為に、それまで同じ言葉で話していた言葉をバラバラして通じなくしてしまいました。
途端に、それまで協力して作業していた人たちは、喧嘩を始め好き勝手をはじめ、力を合わせることが出来なくなってしまいました。
そして、神様はそれぞれ大地のあちらこちらに人を散らばしてしまったのです。
それからわたし達人は、世界のそれぞれの場所で、それぞれの言葉で生活をするようになったのでした。
子どもの私にとって、このお話は神様の印象をも変えてしまうくらいとても衝撃的なお話でした。
私がキリスト教の幼稚園に通っていたのもあったのかもしれません。
「わたし達の幸せを願ってくれているはずの神様が何でみんなが喧嘩しちゃうようなことをしたんだろう???」
何年も何回もこのお話を読んでも取れない、心にひっかかったこの疑問。
色々な解釈はありますが、よく言われているのが「人の傲慢さをたしなめた」「思い上がりはいけない」と説明されていることが多い気がします。
ロシアとウクライナの戦闘が始まりニュースで映像が飛び込んできます。
私達から見るとどちらも外見では違いがわからない。
何でこんな戦争をしなくちゃいけないんだろう。。。
と、ニュースを見ながら考えていた時に『バベルの塔』を思い出す。
「言語が違っている人」「違う価値基準を持っている人」とどうやったら協力して『塔』を完成させられたんだろうか?
きっとこれは出来ると私は思います。時間はかかっても相手を「わかろう(理解しよう)」と努力し続けお互いの言語と気持ちを推し量って行けば、きっと『塔』は完成出来た。それを神様はわかっていた。なのでわざわざ遠くばらばらに人を住まわせるようにされたんだろうなとぼんやり考える。
ウクライナの首相は動画で演説を世界に向けて配信されています。
今は物理的な距離の遠さを、オンラインで近く出来る時代。
「わかろう(理解しよう)」と努力すれば距離をも越えることの出来る時代に。
この戦争や暴力の「危うさ」について相手を理解しようとする前に、自分の中にもこの「危うさ」はあるのだと私たちはきちんと気づいて自覚しておかなければ、暴力や憎しみは連鎖をしていく。
『バベルの塔』神様が高みを目指した人間に『傲慢さ』を感じたのは、この「危うさ」が自分の中にあるときちんと自覚していなかったからなんじゃないのか。。。
私の好きなアニメの1つ『進撃の巨人』そのエンディング曲でヒグチアイさんの歌う「悪魔の子」
わたし達は簡単に『伝わる』と思っているけれど、その真意はなかなか『伝わらない』。だから「伝えたい」と努力をし続けることが大切で。。。
わたし達が『正しい』と思っていることは、「わたし」とわたし達の「大切な人」を守る為であっても、それに「相手」がいることであれば、「相手」とその「大切な人」を守れるとは限らない。。。
そんな矛盾、世界の『残酷さ』を憂うばかりでなく、自分の中の「危うさ」(悪魔の子)さえも愛し慈しみ、世界を愛し慈しむことで『希望』を生み出していく。
この曲の歌詞のスケールに最初聴いた時に自然と涙と勇気が溢れ出した。
神様は伝わりにくくすることで、相手を思いやり伝えようとすることの大切さと、相手に伝わる幸せをわたし達が実感できるようにしてくれたのかもしれないなぁ・・・。
世界のどこに住んでいても、安心して眠り、安心して食べ、安心して笑い合える、そんな幸せな日常が早く戻って来ますように。。。
あなたのそんな幸せな日常が、これから先も続いていきますように。。。
わたし達のこども達のその先も。。。
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