楽園もパーフェクトじゃなかった
14)月子さんとノブちゃんへ
トーマスの提案でホステルを移りました。別々の部屋に一人ずつ泊まるより、二人で1部屋に宿泊したほうが安くなるというのです。調べてみたところ、事実だったので近隣のホステルに移りました。奇妙な同棲生活の始まりです。
しかし、楽園もパーフェクトじゃなかったのです。
アダムとイブが楽園から追放されたように、楽園にはやはり終わりがくるのです。自分の楽園にも来ました。トーマスが去っていったのです。朝起きると、彼の姿はありませんでした。置き手紙があっただけです。それを読んで吹き出しました。住所とメールアドレスと携帯電話番号が書いてあり、その下に大きく「Arigato! You Oishii! Iku! Iku! Iku!」とあります。
たった10日間の付き合いでしたが、それは永遠に思え、幸せでした。自分のほうが「Arigato!」とお礼を言いたいです。外国人男性との恋愛は初めてです。それどころか、外国人と友だちになることさえ初めてでした。顔も声もハンサムな彼、それに年下、もしかするとノブちゃんよりも若く、自分よりも20以上歳下なのかもしれません。怖くて彼が何歳なのかは聞けませんでした。
この歳になって、「You Oishii」と褒められるのは光栄です。「Oishii」と褒められたのは、たぶん彼がローションのうまい使い方を知らなかったからでしょうか。初めはくすぐったかったらしく、ニヤニヤと含み笑いをしていましたが、すぐに慣れその気持ちよさを求めるようになりました。
短くも楽しい恋、でも実は美しい思い出に終わって心の奥底でホッとしています。これまで恋の終わりはいつも悲しいものでした。人のことを本気で好きになっても、その顛末はハッピーエンドから遥かに遠いものでした。
彼が寝ていた枕に頭を寄せます。枕には彼のいい匂いがまだ残っています。首筋や髪の毛の匂い。微かなサンオイルと海と潮、彼特有なのか、それとも白人の匂いか、どこかハチミツのような、いやバゲットとバターかな、香りがします。
自分は毎晩彼の背中に顔を埋めて寝ていました。彼はとても綺麗な背中をしていました。胸は厚く、背も高く彫りも深く、金髪、竿は自分より大きく、トーマスの肉体でどこか一番好きかと聞かれれば、その広い背中でした。引き締まった逆三角形で、ツルツル、スベスベしていて、ほとんど毛が生えていません。産毛もソバカスもない。
男性のなかには背中にまで毛が生えている人がいます。頭は禿げているくせに、背中はクマみたいにケムクジャラだという男性もいます。彼は無精髭を生やしているだけ、厚い胸板にも背中にもほとんど毛が生えていませんでした。舐めると口当たりが滑らかで、そこに顔を埋めていると気持ち良く、夜は静かに眠れました。
自分は背中フェチで、月子さんの背中もノブちゃんの背中も大好きでした。トーマスと愛し合うときも、自分が後ろから彼の中で果て、背中に顔を埋め押し付けます。両手でトーマスの厚い胸を抱きしめ、乳首を両手で愛撫すると、彼の背中が小刻みに震え、興奮している心臓の鼓動が微かに伝わってきます。綺麗で滑らかな背中は日焼けをしていて、太陽の熱が肌に焼きついていました。まるでロゼワインのような淡いバラ色に染まっています。
彼はいわばギリシャの彫刻でした。自分にとってメイク・ラブ、愛し合うことはセックスをするというより、芸術作品に触れることに等しかったのです。通常、美術館や展覧会の美術品に触ることは許されないでしょう。でも、プライベートで愛し合うときは、肉体の美に自分の手で直に触れることができる、それが堪らない快楽なのです。
セックスをするというよりは、美しい芸術作品に、誰の目も憚ることなく、自分の指で、自分の目で、自分の舌で、自分の息遣いで、目と手と舌で絶品料理を楽しむが如き、相手の肉体を、その美しい芸術を密かに貪るのです。大理石のような滑らかさ、でも、大理石のように冷たくなく、血が通った体温の温もりがある。それがどうしようもない美しさと柔らかい感触、そして脳みそが破裂しそうな興奮と、天に昇るような目眩と気絶するような快感、幸せでした。
ワインを飲むことも、単にアルコールを摂取するということだけではありません。それはいわば人間が考え、実行し、そして極めた、匠や極め人のこだわりの集成なのです。ワインに感動するのは、そのこだわりをいただいているという感覚からでしょう。
ロゼワインがその良い例でしょう。自分は日本でほとんどロゼを飲んだことがありませんでした。日本で飲んだロゼはただ甘たるいだけ。でも、ロゼはここ地中海では気候や風土によくあっていて、すこぶる美味しいのです。その濃いピンク色、というか明るいバラ色には甘さの中にも渋さと辛さがあり、極め人のこだわりが感じられ、複雑な夏の味がします。そう、夏の味です。夏の恋の味です。
昼は35度以上になり、湿度も高い。さすがに赤ワインを飲む気になれません。ランチにはやはり冷したロゼワインが最高です。ビーチから帰ってシャワーの後も、濃い桜色のロゼが喉にひんやりとしみます。赤ワインは夜が深まってから。
特に美しいのがその色。赤みがかったそのローズピンクは、夕焼けどきの茜色に似ています。トーマスと二人でホステルの屋根でロゼを飲みながら、毎日夕日を眺めていました。ロゼは透明でその色を通して黄昏を見ると、世界はさらに美しいのです。あらゆる色がグラスのなかに溶け、過ぎ去っていく。あの光り輝く空がワインに微かに映し出され、グラスのなかで小さな宇宙が展開しています。
トーマスの味も香りもロゼワインそのものでした。唇は淡いバラ色、乳首は少しオレンジがかった桜色、竿の内部は明るい桃色。サンオイルのせいか肌はスミレのフレッシュな甘い香りがし、その肌は南国のフルーツ味。複雑なコクもあり、甘いだけでなく、ほどよいタンニン、優美というか繊細な苦さが混ざったロゼワインのそのもの。
いつも寝る前に愛しあいます。『クレヨンしんちゃん』を読んだ後です。そして朝、優しい日差しがカーテン越しに伝わり、世界が白くなり始めるころ、また愛しあいます。その後はまたぐっすりと寝ます。それから夕方、ビーチから帰ってきてシャワーを浴びながら愛しあいます。
彼の置き手紙には、住所はオーストリアとなっています。彼はドイツ人ではなく、オーストリア人なのでしょうか。それともオーストリアに住むドイツ人なのでしょうか。彼はゲイなのか、それともバイセクシャルなのか。それもわかりません。それはもうどうでもいいことです。
二度と逢うことはないかもしれません。彼はローションを使ったことがないらしく、冷蔵庫に冷やしていたローションを塗ると繊細な肌にひんやりとし、くすぐったそうに子供のようにニタニタとし、恥ずかしそうににんまりとします。自分はその笑顔の思い出だけで十分です。一生彼のことは忘れない、忘れられないでしょうが、あの子供のようなスマイルは自分の宝物です。
月子さん、これがマヨルカ島での偶然の出逢いです。正直に書きました。ここまで読み終わったなら、月子さんはショックを受けたに違いありません。「変態!」(ないしは「ド変態!」)と、また罵倒されて当然でしょう。「クレージー!」と嫌われてもしょうがないですね。こんな奴と私は関係していたのかと憤りを感じることでしょう。突然会社を辞め、いきなりマヨルカ島に行き、そこで外国人青年と恋に落ち、毎日ワインを飲んで酔っぱらっている。どうしようもない奴ですね。でも、これが自分の真の姿です。
告白します。実はローションの使い方を教えてくれたのは、ノブちゃんだったのです。月子さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。それが真実です。これまで正直に話す勇気がなかったのです。月子さんにどう思われるか怖くて隠していたのです。
今度は正直に話したいと思います。辛いけど、勇気を振り絞って告白します。
ノブちゃんのことを。
また、メールします。
(続く)