noteのコンテストで受賞しなかった方へ。大丈夫。あなたは否定されていません。
コンテストに応募する意味とは
noteでコンテストをやっていると、必ず応募するようにしています。
8月から9月くらいに掛けて、賞金が出たりメディアに掲載されるような形で募集するお題が結構あったんですよね。
ちょうどその頃私はnoteを始めたてだったこともあって、ほぼ全部応募したんですよ。恐らく保護犬、保護猫に関するお題以外は全て出したと記憶しています。犬と猫についてはアレルギーがあって、近づくと大変なことになっちゃうのでそこだけは掛けなかったのですが…
さておき。
私がこれに応募するのには理由がありまして、それは西尾克洋というライターを知ってもらう機会になる可能性があるから、というものです。
元々私がnoteを始めたのは、相撲じゃないジャンルのことも書く場が欲しかったからでした。相撲やスポーツのフィールドで私のことを知っている人は居ます。でも、そこを離れたら私の知名度なんてゼロに等しいのです。
国技館を歩いているとまぁまぁ声を掛けられることはありますが、街中で私が気づかれるなんていう経験は殆どありません。神宮球場で同じ人物に3回間違えられた経験はありますが、それは別の機会にお話しします。
ちょっとお題が合わないかな?っていう時もありました。カレーのレシピに関するお題の時はさすがに迷いました。私のカレーなんて、ホットクックで適当に作るだけですからね。
ただ、作り方じゃなくてエピソードでも良いということだったので、私のカレー観をエッセイ化するに至りました。これ楽しかったなぁ。
まぁそんな感じで、人の目に付く機会があるのであればこれを利用しない手はないってことで、特にコンテストの時は気合が入ります。
コンテストで落ちると未だに頭に来る
ただ、なかなか引っかからないんですよね。
これ。
元々全ての記事が私の子供みたいなものなので、その子供が認められないというのはまぁまぁ腹が立ちます。賞の選考から漏れた瞬間私はモンスターペアレント状態です。
クレーム窓口があれば駆け込んで、何がどう悪かったのかを聞きたいレベルになります。それくらいプライドを持って投稿はしています。
変な話、賞を取った記事にすら敵愾心を覚えることもあります。何故私が漏れて、この記事が選ばれるのか?なんてことも考えたりもします。これってちゃんと記事に向き合っている証拠ではあると思うんですよね。
逆に言えば、私に関してはこの想いが無くなったとしたら、記事を書くことが今後できるのかな?とちょっと不安を覚えることもあります。それくらい反骨心って自分を掻き立てる大きな原動力なんですよね。
お前プロとして書いているのに、まだそんなところで腹を立てているのかよ?って驚かれる方も居るかもしれませんが、とにかく私は安住したくないし、次のチャンスがあれば目指したいし、はっきり言っちゃうと手に入れられるものは全部欲しい。
いいか悪いかは別にして、強欲なんですよ。
私。
だから多分、相撲の世界でそれなりに仕事があって、キャリアも出来たけど、そこだけで満たされないところが出てきたということなのかもしれません。
コンテストでダメでも前ほど怒らなくなった理由
ただね。
コンテストに選ばれないということについては、かなり冷静になったように思います。
選ばれなかったということが分かった時には前述の通り感情が動きますけど、創作のための意識づけもその通りなんですけど、怒るのはその場限り、30秒くらいなんですよね。
そこからすぐ思うのは、
あ、次だ。次。
ってことなんです。
なんでかな?って思ったんですよ。
自分の子供が認められなくて、一瞬腹立つけどすぐスーッと整理できる親なんて聖人じゃないですか。大体私なんて聖人から一番遠いところに居る変態中年野郎ですからね。
ただ、なんかその怒りの感情が「ホワホワホワホワ、ホワワワワ~ン」っていう、クイズ番組で不正解だった時の気の抜けた効果音が鳴るがごとくしぼんでいくわけです。
まず、気づいたことがあります。
当たり前っちゃ当たり前なんですけど、コンテストで認められなかったからといって自分の立場が全て崩れる訳じゃないんですよ。
だって私、Numberでも現代ビジネスでも書いてるし、ヤフー公式コメンテーターだし、大手出版社から本出しているし、相撲じゃないジャンルでさえ文春に寄稿しているし。
人によってはこれを嫌味だと思う方も居るかもしれないですけど、でもこれは事実なんですよ。
コンテストの結果が出なくても、私には実績もある。
認めてくれる媒体もある。
商業的に価値も見出されている。
なら、いいんじゃね?
って。
コンテストに通らなくても記事の価値は下がらない
それに、これは私じゃなくて、プロとして書いている訳ではない皆さん全員に言える訳ですが、賞が貰えなくても記事の価値が下がるっていうことは無いんです。
仮に賞を取っていない記事に価値が無いとなると、4000本寄稿されたうち賞をもらっていない極めて4000に近い記事が無価値って話になっちゃいます。
自信を持って言えます。
そんなこと、ないんですよ。
賞が貰えなくても良い記事はたくさんあります。あと、そこに優劣はありません。飛びぬけて良いものはあるかもしれませんが、ペーパーテストのような明確に加点ポイントがあるようなものと記事って性格が異なるんですよ。
記事の中に技術点と芸術点が存在していて、必ずジャンプとステップを入れて、それらの総合点を競うような性質のものではないんです。「あーこの記事のこのポイントは4回転サルコウだけど回転不足だね」みたいなことにはなりません。
明確に技巧とか構成が劣っている記事は確かにありますが、そうでなければもう、あとは「どれを選ぶか」ということでしかないんです。
コンテストというのは審査員が居ます。そして、審査のポイントは明示されていますが、最終的に選ぶのは人です。だから面白いのですが、彼らの勘所やツボなんて分からないんですよ。
コンテストに応募するのなんて、暗闇のボールを投げ込む行為に等しいのです。賞がもらえた時はそのボールが胸元に行ったということかもしれません。そうでないときは逸れてしまった。それだけの話です。
他の人も熱量ある記事を投稿している。そして応援してくれる人は居る
あと、忘れてはいけないのが、他にも作品はあるってことです。
自分も真剣に応募していますが、他の方も同じような熱量をもって書かれているんです。自分の記事ってかわいいし、素晴らしいし、認められたい気持ちって強いとは思うんです。
でも、他の方の記事もそれと同じくらいの何かがあるんですよ。その熱を知らないだけで。
だから、コンテストで別の人の記事が認められたのであれば、その人の熱がより伝わったってことでいいと思うんですよね。
あとね。
最も大事なのは、あなたの記事に価値を見出している方は、たくさん居るってことです。
そのコンテストが通らなくても、賞品が貰えなくても、多くの方に知ってもらえる機会が得られなくても、普段読んでくれる方のあなたに対する評価って変わらないんですよ。
元々そうやって評価してくれる人を更に増やしたい。もっと楽しんでほしいっていう想いから応募しているとは思うんです。
ただ、自分の地盤ともいえるところには大事な人が沢山いて、応援してくれていて、何よりあなたの記事をいつだって楽しみにしてくれている。
そういうとても大事だけど、怒りや落胆があるとつい忘れがちなところをきちんと見つめ直していかないといけないと思うんですよ。
昔の人は上手いこと言うなぁと思うのは
「人事を尽くして天命を待つ」
という言葉です。
私たちに出来ることは限られています。やることをやって、あとはもう、神のみぞ知る領域。だから、ダメなら次に進むまでです。
勿論、出来ることをする、コンテストに通るための分析を最大限する、ということは前提としてありますし、自分の記事に酔っぱらって、周りの人の応援に甘えて、自分がベストを尽くしたと誤認するのは違います。
ただ、やれることをやった人間が必要以上に落胆したり、自信が揺らいだり、怒りを覚える必要ってそんなに無いと思うんですよね。次へのエネルギーにするくらいの受け止め方にするくらいがちょうどいいんですよ。
まぁ私はコンテストでダメだったという結果自体は空振りではあると思いますが、自分の記事が空振りをしたとは思っていないので、そんな感じでいいのかなと思いますよ。
■今日の記事
優しい記事なんですけど、ちょっと背筋が伸びます。
人生の先輩の大事な言葉だと思います。
■Voicyで放送をアップしました。
初めての放送です。是非お聴きください!
先日記事にした、「何を学び直すかが大事」という話です。