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多様性に配慮した結果、口数が減り作り笑いするようになった話

多様性に配慮してスムーズに行くようになったことは多い

今の時代、様々な背景の方がいて、皆大変な想いを抱えて生きていると思っています。

で、昔は配慮されなくて多くの人が苦しんできたことについて声を挙げることによってそういう方たちが何をされたら嫌なのか、どう接すればいいのかが色々を分かってきています。

例えば鬱になっている人に対して掛ける言葉って、たとえそれがポジティブなものであっても追い詰めてしまうことがあるっていうのは結構有名な話です。

まぁ考えてみると悲しそうな顔をしている人に無責任に「大丈夫だよ」とか「みんなそんなこと思ってないよ」なんて安易に言ってた気がしますけど、流せる人なら良くても追い詰められていたら「なんでお前が大丈夫って言えるんだよ?」って感じることもあるし、実際そこには大して根拠も無いわけだし、分からないでもないんですよ。

あとは、変ないじり方をしてはいけないことっていうのも明らかになってきています。LGBTに関しては昔は本当にひどいコントとかやってましたからね。世の中があれで笑っていたら小さくなってるか、それとも自分を傷つけながら笑いにするかどっちかしかないですから。

だから、本当は配慮しなければならないことが明らかになってきていて、私たちが取るべき行動が変わってきているというのはいいことだと思っています。

理解が及ばない範囲まで多様性は問題提起されている

配慮しなければならないことは分かります。私はどちらかというと難しい背景をあまり持っていないサイドで生きている自覚はありますから。

恐らく私は過去にそういう大変なものを抱えている人からしたら「この人はなんてことを言うんだろう」って憤慨されるようなことをしたり言ったりしてる筈なんです。

それがどんなことなのかも理解できていないくらいだから猶更マズいんですけど、それだけに無自覚で本当にタチが悪かったんじゃないかと。

一つ確実に分かるのは、今の時代外見や趣味嗜好を笑いのネタにするのはご法度だということ。世の中では未だにハゲいじりとかやってますけど、あれもいずれダメになるはずです。

だから、何に配慮しなければならないか?という複雑な事情は分かりませんが、とりあえず嫌がる人が居るかもしれないというネタは触れないようにしていますし、誰かがそういう話題を出したときは直接的に怒るのも角が立つので苦笑いするようにしています。

で、これが私の想像が及ぶようなことであればいいんですよ。たださっきも話したように本当に無尽蔵に増えすぎていて、私の理解が及ばないことまで問題提起されている訳です。

「コクハラ」辺りの概念は無視して良いとは思うけど

最近一番ビックリしたのは「コクハラ」という概念ですね。脈が無い状態で異性に告白したら気まずくなるからやめろっていうんですよ。

真剣にこのネタに向き合うと、んなこと言われてもわかんなくないっすか?告白するときって誰しも脈が無い状態だとは思わない筈じゃないですか。勝算があって言ってるんですよ。でも、実は脈がありませんでした、って話で。

それ言われちゃうと、こっちは勝算があるつもりでも実はそうじゃなかったという可能性に配慮すると告白なんてことが出来ない訳です。ハラスメントなんて言われるリスクをわざわざ掛けて、嫌われ者になる可能性を考えてたらじゃあ一人でいいや、ってなる人が居てもおかしくないですよ。

特にこれは、お付き合いとかしたことが無いような高校生・大学生がどんどん追い込まれることになるんじゃないかと。あと、モテない子たちがこれを理由にどんどんおひとり様である自分を正当化しそうだなぁって。

でね。
これに関しては今真面目に取り上げましたけど、多分本当は別に配慮なんかしなくても良い妄言である可能性もあるんですよ。さすがにそれは無理筋な配慮だぜってことで笑い飛ばせばいいことだとは思うんですね。

ただ、これは無茶苦茶な暴論ってことにしていいのか、それともマジで止めた方がいいことなのかっていうのは正直よく分からない。

多分暴論ってことで片付けていいとは思うんですけど、いやいやもしかしたら…っていう想いもしこりみたいに残ってるんですよ。

だから、妄言なのかマジなのかよく分からない概念が世に出るたびに「え!?それどうすりゃいいのさ?」ってなってしまう。

でね、こういう「こんなことをされたら困る!」とか「これをしたら嫌われる!」ってことについて「~ハラ」って書きたてるでしょ。セクハラとかモラハラとコクハラは全然違う位置に居ることですけど、困ったことに同列になってる。

「~ハラ」という概念はみだりに提示してほしくない理由

ということで私が最近多様性とか、いろんな人の考えに配慮するようにした結果、どうなったと思いますか?

すげえ愛想笑いして、無難なことばかり言うようになったんですよ。なんなんすかねこれ。多様性によって私はとんでもなく縛られてるんですよ。意味わかんなくないっすか?多様性ってそんな窮屈なものじゃないはずのものじゃないですか。

今までがおかしかったのは間違いないし、もっと様々な背景の人のことを知らなければいけない。嗜好や病気のようなこととさっきの「コクハラ」はまるで違うんですけど、知らなかった概念がいきなり目の前に出てきてそこに自分を適応させなければいけないという意味では近いところにはあるんですよ。

もうね、最近は会話の中で考えることは「これは大丈夫かな?」ってことばかりなんですよ。大丈夫じゃない人が居ることを前提に向こう側の立場になって考えてばっかりで、それは多様な価値観に想いが及ばない自分だからやってることなんでしょうね。

ただ「それは酷い!」とか「~ということも知らないのか!」とか「~に対する配慮が出来ていない!」って言われたら面倒だし、人を傷つけたくもないし、分からないなりに寄り添っていかなければならないんですよ。過渡期だからこそ。

そういう中に、マジでNGなことと大して相手にしなくてよい新概念であろう「~ハラ」が混ざっていて、本当に面倒なんです。

だからね、自分もメディア側の人間ではありますが、最近のメディアに言いたいのはマジでNGでもないことを「~ハラ」とか銘打って記事にするんじゃねえよってことなんです。

あと「こういうことは止めろ!」っていう人、本当に自分の正義を社会全員が守らなければならないことだ!みたいな言い方するでしょ。そこまで酷いことってそんなに無いから止めましょうよ。「コクハラ」なんて言うけどそんなに告白なんてされないわけだし。年1~2くらいでしょうしね。

何ていうか、どいつもこいつも大したことじゃないのに「可哀そう」って言われたいの止めなさいよ。それやっていいのは本当に辛い人だけです。みそっかすになったもの勝ちなのは分かるけど、ダサいぜそれ。マジで。

多様性を求めて寛容さが失われているという皮肉

してはいけないこととか相手に対する配慮がエスカレートする初期の議論って恐らく「唐揚げレモン論争」だったと思うんですよ。あれも最初はめんどくせえなぁって思ったんですけど、でもまだ幸せだったんですよ。レモン掛けたところで掛けてほしくない人がブーブー言う程度でしたから。

なんかね、絶対やっちゃいけないっていうことはともかくとして、多少イラっとする程度のことまで同じ扱いにすることによって多様性と逆行してる気がするんですよ。自分の偏狭な正義感を認めてほしいがために寛容さが無くなってきているってことです。

だから「それは本当にダメなことなのか」っていうのは大事なんですよ。

多分今の多様性のあり方が導いているのって寛容さの喪失であり、多様性を求めた結果世の中がどんどんギスギスしてきていて、言えない本音をネットで吐くからそれを見た人が病んでいく。そして病んだ結果更に多様性を求める。

そういう負のループにハマっているってことだと思うんですよね。

終始言い続けてますけど、私は別にだからと言って寛容という名のもとに人を傷つけるようなことがまかり通っていいと主張してるわけじゃないですからね。

こんなことをわざわざ言わなきゃいけないっていうのも本当に面倒なんですけど、これを目に付くところにちりばめないとすぐ怒る人居るんですよ。全部読まずに都合いいところだけ読んで当たり屋みたいに怒る人。そういう奴に配慮するためのものじゃないんですよ。多様性って。

あー、唐揚げレモン議論の頃に戻ってところかまわずレモンぶっかけてやりたい。

というわけで唐揚げはレモンがあってもなくても大して気にしないポロロッカ西尾にお気軽にコメントいただけると嬉しいです!

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西尾克洋/相撲ライターの相撲関係ないnote
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