『「仕事ができる」とはどういうことか?』を読んで。
『「仕事ができる」とはどういうことか?』を読んで、心に残った箇所を備忘録としてここに記しておきます。
「好き嫌い」の問題を「良し悪し」へ強制翻訳
みんな口では「多様性が大切だ」と言うくせに、自分と違う意見や価値観に直面すると「どっちが正しいか」「あいつは間違っていて、自分が正しい」となる。ジェンダーや国籍といった人口統計的な多様性については大歓迎なのに、肝心の価値観の多様性については心が狭い。社会に多様性が大切だとしたら、「組織に多様性なんか必要ない」という意見があってしかるべきなんですね。
女性が活躍できる職場、若手が管理職となる職場、というのはありふれてきたように思います。でもそれはあくまでも人口統計的な「あるべき論」で、価値観の多様性にはまだまだ多様性が足りない。
一部多様性を認めつつあるけど、「活かす」までには至っていない。使えない人材だとしてもその人材で結果を出すのがマネージャーの仕事だと思う。
認めて、活かす。このサイクルをもっと考えて行きたい。
外交官としてハイパフォーマンスを出せる3つの素養
国務省が悩んでいたのは、大学時代の成績や語学力や研修などの評点と、いわゆる外交官としての現実のパフォーマンスの間には、まったく統計的な相関完成がなかったことなんです。
(中略)
成功している外交官に共通してみられる行動パターン
①対人感受性が非常に強い
皮膚の色が違うとか、文化や宗教が違う相手であっても、その相手がいま非常に心配しているとか、怒っているというようなことに関する対人感受性が強い
②根源的な人間に対する信頼を持っている
非常にフラットで建設的な人間関係が築けるはずだというビリーフ(思考パターン)ですね。ですから「あいつらはどうせバカだから」「変な宗教を信じているから」みたいなものがまったくない
③政治的な力学に対する嗅覚がある
組織図の上にいる人が実際上の権力者、意思決定上のキーマンというだけではなく、フィクサーみたいな人がいたり、別のキーマンがいたり、それを見抜く嗅覚をもっている
結局は相手への「想像力」があるかどうかが第一。そして「人」に対して根源的な信頼。人を諦めない、希望を捨てないこと。最後に、「うまくやる力」。
ただ正論を伝え続けても人は動かないわけだから、場合によっては根回し、事前確認を踏んで「自分が目指す最終目的」のために自分を変えてでも成し遂げられる意志があるかどうか。
事後性のジレンマからの悪循環
よい本を読むのは事後性の克服に有効ですが、読書それ自体が事後性の高い行為ですね。しかし、まとまった本を読むこと自体に難しさを感じる人は読書の効用を体感できない。だからますます本を読まなくなる。事後性のジレンマから悪循環が生まれる。
まずは四の五の言わずに読んでみるしかないんですね。そのうちわかってくる、としか言いようがない。速読術だのフォトリーディングだの、そういうことを言う人がいますが、ショートカットをしようとする人はいつまでたっても本を読めるようにならないですね。
本はホントに有能だし、手軽にインプットできる手段だと思う。だけど、読書が苦手な人は「インプットとして有能」だと分かっていたとしても、本を読むことができない。
数々の誘惑があるけど、結局は「本を読んだあと(事後性)の成功体験」がないからだと思う。でもそれは本を読んでないからであって、という禅問答。。結局は「行けばわかるさ」という想いで本を読まなければその有能性には気が付かない。
リターンが非常にボラティリティー、つまり不確実性が高いとなると努力の総量そのものよりもその不確実性に人は苛まれるっていうことなんでしょう。
昔の司法試験の勉強みたいな、難易度とか必要とされる努力量がものすごく大きなものでも、司法試験に合格するというはっきりした目的に対する手段になっている。だから事後性は低い。試験に受かるのかなという「安心な不安」があるだけです。
なぜ自分は不確実性が高いものに努力できるのか?と考えたときに、「資格の有無」というテーマでピンときた。
マーケティングには資格がない。細分化すればいろいろあるんだろうけど、基本的にマーケティングは学問であるので、弁護士や社労士のような資格を取って始める仕事ではない。
マーケター・コンサルタントに資格はいらない。だから誰でも始められる。でもだからこそ、周りからは「ホントにそれってマーケター??」と思われないために努力する。みんなの期待に応えるためにがんばる。そこに「資格」という目に見えた目標がないからこそ、どこまでも行けるんだと思う。
どこで勝負するかという「土俵感」
全方位的にセンスがある人というのはいない。本当にセンスがある人というのは単にセンスがあるだけではなくて、自分のセンスの「土俵」がよくわかっている。これが自分の仕事なのか、そうじゃないのかという直観的な見極めが実にうまい。
初めのうちは迷ったらとにかくやってみる。ところが、いつまでたってもそのやり方を続けている人というのは、たぶんセンスがない。「これは自分の領分ではない」と思うことには手を出さないという「土俵感」。「これが自分の土俵だ」という感覚がだんだんはっきりとしてくる。これもまた仕事ができる人の特徴だと思います。
これは結構難しいんだけど、やっぱ向き不向きはあるのかなぁと思う。私はセリングだけのセンスはなかった。そこにマーケティング・ブランディングの視点を取り入れることで他者と差別化しなければいけなかった。セリングだけで勝負できる資質はなかった。
ここでいう「土俵」とは、自分が「その仕事が好き」で、かつ相手にとってもその仕事で喜んでくれること、だと思う。利害が一致して利益も担保できる。そんなポジションを築ける人はセンスがある。
仕事が出来ない人は箇条書きが好き
仕事ができる人とできない人を対比するときにわかりやすいのが、できない人って箇条書きが好きなんですね。ToDoリストが大好き。
ここで箇条書きというのは物事の「並列」という意味で使っているのですが、並列的な思考の問題点というのは時間的な奥行きがなくなることなんです。並列的思考はセンスを殺すと思います。「So What?」が捨象されてしまう。あらゆる仕事は最終的には成果につながらなければ意味がない。ところが、並列的な思考だと成果へのつながりという論理展開がなくなってしまう。
恐らくこれは「成果から逆算してToDoをつくる」であればいいけど、「とりあえず思いつくToDoを挙げてみる」というのがダメ、ということかなぁと思った。
とにかくタスクを見つけてこれだ!と無心にやる。そこに意義目標や目的はない。タスクを消化することに躍起になってしまうのって滑稽だよね。
「インサイド・アウト」か「アウトサイド・イン」か
仕事ができない人というのは、だいたいアウトサイド・イン。これがセンスを殺す要因として大きいのではないか。最適な解がどこかに落ちているはずだからとブワーっと幅広く外部にあるものをサーチして、そこからいいものをピックアップして問題を解決しようとする。これがアウトサイド・インのアプローチです。
(中略)
アウトサイド・インの人は「これからどうなるのか」をすごい知りたがる。どうなるかを知ったうえで、数多くのオプションのなかから正しい解を選択しようとする。だから未来予測とか「これからなくなる仕事」とかいう話が大好きなんですよ。
これはわかるなぁ(笑)。この仕事の正解ってなんですか?って聞いてくる人がいる。いや、そんなの自分で考えて答えを見つけなよ、と思うんだけど、答えがないと不安なんだろうな、とも思う。
正解がわからないから、とりあえずいろんな情報を集めてあーだこーだ考えて、結局「それっぽい答え」に行き着く。でもそんな誰の目を見て仕事しているかわからない解に用などはない。
自分が必要で、相手にとっても必要なことを見つけ、そこにこそ力を割いて努力をする。拙くても自分で紡いだ言葉はきっと誰かを動かす、そう思いたい。
仕事にモチベーションはあるか?
人もある、金もある、技術もある、ネットワークもある、ブランドある、何もかも持っているNTTやIBMのような会社と比べて、最初のころのヤフーやアマゾンにはなんにもない。ベンチャーキャピタルからの投資もやっとのことだし人材もない、ブランドもない、ネットワークもない、技術もない。だけど結果的にはヤフーやアマゾンが勝って、NTTやIBMは完膚なきまでに叩きのめされたわけです。
このとき負けた側には何が足りなかったかというと、これはやっぱりひとつしかない。モチベーションなんですね。NTTやIBMにはミッションがあってもモチベーションがないんですよ。
(中略)
上司から「仕事だからやれ」と言われた。「アメリカでは検索エンジンというのが始まったらしい。ウチもつくるぞ。やれ」と言われて、実直だからみんな真面目に調べる。まさに外側からのアウトサイド・インなんですね。視察に行ったりしていろいろ調べて、「技術的には簡単だよ。こんなの簡単にできる」と甘く見る。でもインサイド・アウトの人は「世の中をひっくり返してやろう」とか舌をペロペロしながら考えているわけですよ。
モチベーションがあるかどうか。そのモチベーションとは単に「与えられたことだけを遂行する」ためのものではなくて、もっと根源的で、それでいて独善的なものでいいと思う。
「誰かの役に立ちたい」かもしれないし「みんなを笑顔にしたい」でもいい。自分のガソリンになるわけだから、辛い時や悲しい時に立ち返ったときにそこにある言葉。
私は「私と関わる人すべての役に立ちたい」という気持ちで仕事をしている。だから自分の売上や利益は二の次。まずは関わってくれた人へ義理を立てる。その結果、少しずつ利が戻ってくる。そういう生き方で勝ちたい。
島田紳助の「芸人は努力するな」の意味
2011年に芸能界を引退された島田紳助さんが、吉本の若手に対して明確に言っているのは「努力するな」ということなんですね。ここで言う努力とは漫才やコントの稽古ということ。若手は不安でしょうがないのでじっとしていられない。すると何をやるかというと、やたらと漫才の練習をしちゃうわけです。
だけどそんなことは紳助さんに言われたら順番が違うと。「どうやったら売れるか」という戦略のないままにひたすらに漫才の稽古をする、そんな不毛な努力をするならまずは「笑いの戦略を立てろ」と紳助さんは言っている。お笑いというのはマーケットであり、実は競合がいるんだと。自分の笑いのセンスや見た目だったら、誰のポジションの近くだったら取れるか、芸能界でどこのポジションが狙えるかと、それだけを考え続けろと言っているんですね。
芸を磨く(スキルを高めるとも言う)って安心できるんです。人って「ここまでやったから自分は大丈夫だ」と思いたい。でも実際は自分以外のみんながたくさん努力している。
さらに紳助さんが言うように、マーケットがあって、競う相手がいる。だから努力の方向性を間違えると、その努力は無駄になってしまうかもしれない。そうならないためにさっきの「自分の土俵」のように、勝つ場所を決めておくことが大事になる。
P&Gは「Where to win(どこで勝つか)、How to win(どうやって勝つか)」を求められると聞く。努力の仕方にもセンスが出るんだと痛感。
仕事ができる、は「気前がいい人」
実際、僕の経験でも仕事ができる人ほど気前がいいような気がします。「気前がいい」というのは一般に思われているよりもずっと大切なことだと思うんです。フランスの作家であるラ・ブリュイエールは「徳は勇気と気前の良さだ。なぜかというと、生命と金銭という二大重要事を軽視することだから」と言っています。自分が小さいということは、勇気があるのと同じくらい大切なことですね。
生命と金銭。大事なことを敢えて軽視できることは尊い。大事なものなはずなので、手放すには勇気がいる。もう戻ってこないかもしれない。でも気前のいい人は軽々しく手放す。
損得勘定だけで動いている人は簡単には手放せない。なぜなら手放してしまえばもう手に入れる力がないからだ。結局はその程度の力しかない、ということなんだけど、、、
そんなのダサい。カッコ良く生きたいから、気前よくなれるように努力する。
若者の「おっさん化」
若い世代がすごく「おっさん攻撃」をするじゃないですが。劣化したおっさんが身の回りにいっぱいいる。ただ年齢が若かったとしても、自制がなくて、今ある出来合いの価値基準にやすやすと乗っちゃうような人は、若くても「おっさん化」しているわけですよね。
システムに無批判に最適化しようとする、世の中から与えられたモノサシを疑わずに駆け上ることに血道をあげる、というのがおっさんの基本行動ですから、年齢にかかわらず、例えば就職偏差値の高い企業をひらすら目指して就職活動している一流大学の学生なんかは「おっさん」に分類されることになりますね。
おっさんを攻撃している人もおっさん化している可能性がある、ということ。特に若い子はまだまだ立場も下でできることも限られているわけだから、流されやすいこともあると思う。
そこでシステムや制度を受け入れざる得ないこともあるでしょう。でもその当たり前・常識に疑問を持って、あるべきを語れる人になりたい。
センスはディープランニングの結果として事後的に生まれる
よく「優れた人はブレない」とか「意志決定が速い」と言いますね。ビジネスでは必ず、その人にとっての未知の新しい現象が毎日出てくるわけですよね。ところがそれを一度自分なりの論理というか抽象のほうに上げている人にとってみれば「いつか来た道」というか、「いつかどこかで見た風景」になっている。だから新しい事象についても、確信を持って素早く意思決定できるのだと思います。
この手の話を聞くたびに結局、センスとは「戦う土俵を決め、そこで滅びる覚悟を持った人」であるのではないか、と感じている。
戦う土俵を決めている人は価値基準がハッキリしているから、新しいことでも基本は即レス、迷わない。なぜなら価値基準が抽象化できているから。
「正解が過剰で問題が希少」な社会
「問題が過剰で、正解が希少な社会であれば、与えられた問題に対して正解を出すスキルを持っている人物は高く評価され、経済的にも成功しただろう。しかし現在はその逆、つまり「正解が過剰で問題が希少」な社会になりつつある。ましてや現在は人工知能の価格が急速に下がりつつある時代である。このような状況では、ますますスキルの相対的な価値は低下し、コモディティ化していくことになる一方で、社会から誰も気づいていない問題をすくい取り、それを解決することで儲ける仕組みを構想できるセンスには高い価値が認められるようになるだろう。
この本はスキルの対極はセンスである、としている。スキルは時間をかけて努力を続け、経験とともに徐々に身に付く。じゃあセンスは努力や経験をしない対極にあるのか?というとそういうものではなくて、スキルの「先」にあるんじゃないかと思っている。
センスを言い換えると「勘所」とか「天性の嗅覚」みたいにも言われる。でも勘所も嗅覚もスキルを身につけて、多くの失敗を経験してこそ備わるものなんじゃないか。
そこに加えるなら、「戦う土俵を決め、そこで滅びる覚悟を持った人」。そんな人はどの業界や職種に移っても戦っていける。
正解過多のこの世の中で、正解を探すことにはなんの価値もない。自分なりの正義を持ち、立ち返れる場所があり、それでいて気前がいい。自分の目的のために滅びる覚悟を持って努力し続けられる人こそが、これからの時代に求められるということだと感じた。
以上、最後までお読みいただきありがとうございました。