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「多元的な自己」と「Self-Interaction(自己相互作用)」〜光の混色、あるいは絵の具の混色を触媒として〜
「Self-Interaction(自己相互作用)」
2025年が自分にとってどのような一年になるのか想像も付かないのですが、中心軸となるのは「Self(自己)」と「Interaction(相互作用)」ではないかと直感しています。
昨年の中心軸は間違いなく「身体化」と「Embodiment」でした。
身体化とは「身体的な経験を通じて自己認識を深めてゆくプロセス」を指し、Embodimentとは「抽象的な概念やアイデアが具体的な形を持つこと」を指します。
ヨガや楽器演奏、朗読を初め、いくつかの身体的な経験を日常の習慣にすることで、何時も状態の異なる身体と向き合い、その予定不調和な状態の中で「変化」を察し、「ゆらぎ」と向き合い、そして自分の内側にある経験や記憶の星々のあいだに思いもよらない「つながり」が突如として見出されることがありました。
"Self"という言葉は一般的に「自己」と訳されますが、では自己は「一つ」なのだろうかと考えると、私は「自己は一つではなく、多様な自己が互いにつながり合っている」のだと思うようになりました。
その考えは、自分が変化し続けていること、留まることなく流れ続けている自分というものがあり得るという実感に下支えられています。
光の混色では、三原色(赤、緑、青)を混ぜると全ての色を生成することができて、この場合、全ての色を混ぜ合わせると「白色」になるとされます。
また、絵の具の混色の場合には、各色が異なる波長の光を吸収し、たとえば赤い絵の具は赤以外の光を吸収しますが、様々な色を混ぜ合わせると多くの波長の光が吸収されて最終的に限りなく「黒色」に近づくとされています。
「自己」という概念は、光や絵の具の混色における「白」や「黒」に近いのかもしれません。
感情や感覚も明確に分割、分節化することは難しく、どこかグラデーションのようであるように、色彩のグラデーションのように多様な「自己」が存在しているように思います。
全ての色が混ざり合うと、その色彩の多様性が失われてしまっているように思われるけれど、それは個々の色彩の消滅や消失を意味するのではなく、互いに重なり合いながら、その瞬間瞬間で何らかの「調和」を見出しながら、「一つの自己」として統合、具現化していると見ることができるのではないでしょうか。
多元的な自己(Self)が、内側で相互に響きあってゆく(Interaction)。
それは、「閉じながらも開かれている」という身体の特性によって、自己は自己を取り巻く環境や世界と常につながり続けていて、「自己それ自身のみで存在していない」ということ。
自己をどのように閉じて、そして自己をどのように開いてゆくのか。
そうした問いが2025年の中心軸になるような気がするのです。
科学と常識との交渉は、これは科学の問題ではなくてむしろ認識論上の問題である。したがって科学上の問題に比べてむつかしさの程度が一段上にある。しかし少くも歴史的に見た時に従来の物理的科学ではいわゆる常識なるものは、論理的系統の整合のためには、惜気なくとは云われないまでも、少くもやむを得ず犠牲として棄却されあるいは改造されてきた。
物理学の対象は客観的実在である。そういうものの存在はもちろん仮定であろうが、それを出発点として成立した物理学の学説は畢竟比較的少数の仮定から論理的演繹によって「観測されうる事象」を「説明」する系統である。この目的が達せられうる程度によって学説の相対的価値が定まる。この目的がかなり立派に達成せられて、しかも根本仮定が非常識だという場合に常識を棄てるか学説を棄てるかが問題である。現在あるところの物理学は後者を選んで進んできた一つの系統である。私は常識に重きを置く別種の系統の成立不可能を確実に証明するだけの根拠をもたない。しかしもしそれが成立したと仮定したらどうだろう。それは少くも今日のいわゆる物理学とは全然別種のものである。そうしてそれが成立したとしても、それが現在物理学の存在を否定する事にはなり得ないと思う。そして最後に二者の優劣を批判するものがあれば、それは科学以外の世界に求めなければならない。