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座る=重力に抗う〜調和していれば意識に立ちのぼらず、不調和であれば意識に立ちのぼるということ〜
「座っている状態を保つ」
「座る」動作、状態も様々ある。
椅子に腰をかけて座る。
立っている状態から地面に腰を下ろして座る。
身体の隅々に意識を向けるようになり、座っている状態を保つことは意外に難しいと気付く。
正確には「身体に負担が少ない形で座り続ける」ことは意外に難しい。
頭頂部を誰から引っ張られているように、抗重力筋を働かせて上半身が上に向かって伸び続けるように、重力に抗うように背筋が伸びる。
そして腰が後傾する(丸まってしまう)ことのないように、適度に腹筋(内側の筋肉)に力を入れて骨盤を立て、その上で尾骨から腰まわりを通り背骨から首までが頭頂部に向かって伸びているような感覚。
つまるところ「座る」とは「重力に従う」ことではなく「重力に抗う」ことではないか、と思う次第。
座ることは「身体を緩める」あるいは「楽をする」ため、というイメージがあったし、他者からも「リラックスしている」と見えるかもしれないが、実は真逆かもしれない。
座りっぱなしの状態で「疲れてしまう」あるいは「辛い」と感じることがあったならば、それは「楽になる」という「主観」を改める機会と言えるのかもしれない。
身体は「調和」していれば意識に立ちのぼらないし、「不調和」であれば意識に立ちのぼってくる。
じつに素直である。
もう少し進んで科学は客観的、芸術は主観的のものであると云う人もあろう。しかしこれもそう簡単な言葉で区別できるわけではない。万人に普遍であるという意味での客観性という事は必しも科学の全部には通用しない。科学が進歩するにつれてその取扱う各種の概念はだんだんに吾人の五官と遠ざかってくる。したがって普通人間の客観とはしだいに縁の遠いものになり、云わば科学者という特殊な人間の主観になってくるような傾向がある。近代理論物理学の傾向がプランクなどの云うごとくしだいに「人間本位の要素」の除去にあるとすればその結果は一面において大に客観的であると同時にまた一面においては大に主観的なものとも云えない事はない。芸術界におけるキュービズムやフツリズムが直接五官の印象を離れた概念の表現を試みているのとかなり類したところがないでもない。
次に、自然科学においてはその対象とする事物の「価値」は問題とならぬが、その研究の結果や方法の学術的価値には自ら他に標準がある。芸術のための芸術ではその取扱う物の価値よりその作物の芸術的価値が問題になる。そうして後者の価値という事がむつかしい問題であると同様に前者の価値という事も厳密には定めがたいものである。