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"ゆっくり丁寧に"から始めよ〜全体的な協調・調和の源泉〜
「"ゆっくり丁寧に" は "速い"を兼ねる(ゆっくりと急ぐ)」
ヨガや楽器を続けているうちに、いつしか「自分の身体と向き合う」ことがとても面白く感じられるようになった。
数年前からはHIIT(High Intensity Interval Training)にも取り組みはじめて、「瞬発的な動きの中でも呼吸が乱れないこと、乱さないことの大切さ」も身を持って知った。
共通することは「呼吸、姿勢、動作の協調」であり、「隅々まで意識の行き届いた丁寧な動作」の積み重ねが「協調の源泉」だと実感している。
ゆっくりと丁寧に動作を行う。
それは無数に存在する動作の選択肢の中から「最も理にかなったものを選び取る」ことでもある。
どのような姿勢を取るのか、身体をどの方向にどのぐらいの速さで動かすのか、そのためにはどこの筋肉に力を入れるのか、力を適切に入れるために他の部分をどのようにどれぐらい脱力するのか、どのぐらいのペースでどのぐらいの量の呼吸をするのか。
身体動作は極めて「多元的」である。
意識的、無意識的の両面で、自分が動かすことのできる変数がいくつも存在する。
そして「問うこと」はすなわち「意識を向けること」でもある。
頭の中で「指を動かす」と思うだけでは「指が動かない」ように、意識を向けたからとて、その身体部位を意識的に動かす事ができるとはかぎらない。
意識が向くためには「感覚」あるいは「反応」という声に耳を澄ませなくてはならない。
「身体の微かな声」が聞こえるようになって初めて特定の身体部位に意識が向き、その箇所を意識的に動かすことができるようになると思う。
身体の微かな声を聞くためには「ゆっくり丁寧」の積み重ねが必要であり、量をこなす中で小さな差異に気付くことから始まるようにも思う。
今の瞬間、いつもと何かが違って「全体がうまくつながった」と感じられる瞬間は期せずして訪れる。
期せずして訪れるから、その瞬間を身体的に再現しようと思ってもなかなか再現できないこともあるけれど、頭の中の霧がスッと晴れてゆくように、身も心も晴れやかなるひと時が訪れる。
ゆっくり丁寧に、身体全体を強調させることが一定の再現性を持つようになってくれば、あとは全体が破綻しないように、協調が乱れないように、少しずつ少しずつペースを早めて「全体の調和をなじませる」ように努めるのが大切なように思う。
そして、少しずつペースを早める中で、身体的な協調が「意識から無意識へと移行する」瞬間が訪れる。
それは、物理学でいうところの「相転移」、つまり固体から液体へ、液体から機体へと、物質の相(状態)が温度や圧力などの変化によって切り替わる現象を想起させる。(ちなみに相転移にも、2つの相が共存している"非連続相転移"と、そうではない"連続相転移"が存在する)
やはり、「協調・調和している物事は意識に立ち上らない」という思いは変わらない。
「加速し続けること」に光が当たりやすい昨今のように思うけれど、私は「速度を緩めること」にも等しく光を当ててゆきたい。
それで芸術家が神来的に得た感想を表わすために使用する色彩や筆触や和声や旋律や脚色や事件は云わば芸術家の論理解析のようなものであって、科学者の直感的に得た黙示を確立するための論理的解析はある意味において科学者の技巧とも見らるべきものであろう。
もっともこのような直感的な傑作は科学者にとっては容易に期してできるものではない。それを得るまでは不断の忠実な努力が必要である。勉めて自然に接触して事実の細査に執着しなければならない。常人が見逃すような機微の現象に注意してまずその正しいスケッチを取るのが大切である。このようにして一見はなはだつまらぬような事象に没頭している間に突然大きな考が閃いてくる事もあるであろう。
科学者の中にはただ忠実な箇々のスケッチを作るのみをもって科学者本来の務と考え、すべての綜合的思索を一概に投機的として排斥する人もあるかもしれない。また反対に零細のスケッチを無価値として軽侮する人もあるかもしれないが、科学というものの本来の目的が知識の系統化あるいは思考の節約にあるとすれば、まずこれらのスケッチを集めこれを基として大きな製作を纏め渾然たる系統を立てるのが理想であろう。これと全く同じ事が芸術についても云われるであろうと信ずる。