そこはかとない寂寞感の上で見ている。。。
このコロナ禍で「おうち時間」を過ごすため、自分が取り入れた習慣。
ひとつは、『教会の祈り』で朝・昼・夜と祈ること。
もうひとつは、安野モヨコ『オチビサン』を少しずつ読むこと。
鎌倉のどこかにある豆粒町で、オチビサンとなかまたちが季節を愛でながら、またーり過ごす姿が、ユーモラスに描かれている。
そのなかに、とっても心に沁みる、自分にとっての「神回」が、あるんだよね。
たとえば、第2巻82ページ。。。
今年も水仙が芽を出したので
オチビ「誰がここに植えたんだろう」
ナゼニ「オチビサンじゃないとすりゃ。。。昔ここに住んでいた人かなあ。
まあ でも 水仙は自生するからね。自然に生えてきたのかも」
オチビ「自然に?」
その晩 オチビはそっとたずねました
オチビ「君たちはどこから来たんですか。
オチビもね。。。どこから来たのか わかんないの。。。」
水仙の芽は 何も言わず ゆらゆらしながら花の咲く夢を見ていました
。。。っていう。
自然を愛でる。。。自分も自然の一部であることを知る。。。でも、その自然は、その自分は、どこから来たんだろう?
「オチビもね。。。どこから来たのか わかんないの。。。」
わからない。。。
その、わからないまま、を、そっと抱きしめながら、生きて行く。。。
それが、日本人の感性だよなあ、と思う。
今日の聖書の言葉。
あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。
わたしは恐ろしい力によって
驚くべきものに造り上げられている。
御業がどんなに驚くべきものか
わたしの魂はよく知っている。
詩編 139:13-14 新共同訳
その、日本人の感性、に対して、聖書の世界というのは、どこまでも、きっちりと、答えを提示しようとして来る。
今日の聖書の言葉なんか、その典型だよね。
創造主がいて、その創造主が、自然も自分も、つくってくれた。。。
そうであるとするならば、自分のすべては、創造主に知り尽くされていることになる。
秘められたところでわたしは造られ
深い地の底で織りなされた。
あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
まだその一日も造られないうちから。
詩編 139:15-16 新共同訳
安野モヨコのペンによって、オチビサンの日々は、すべて記されている。作者が、オチビサンに、どれほど愛情を注いでいるかは、それを読めば自明なんだけど。。。
でも、オチビサンは、そこはかとない寂寞感のうちに、そっと、つぶやくんだ。
「オチビもね。。。どこから来たのか わかんないの。。。」
作者が、ペンを置いて、自分の身を二次元に圧縮し、紙のページに入り込んで、自分が作ったキャラクターを抱きしめに行くことは、難しい。
でも、現実の世界では、そういうことが、ほんとうに起きたんだと思う。創造主が、神としての在り方を置いて、小さな赤ん坊となり、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけに降り立った。。。それは、不可能なことを可能にするためだ。
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