「受験勉強が得意なことと、その後の人生で研究者や技術者として大成することは全く別の話」に関する考察
東京工業大学の益学長の発言でとても興味深い発言がありました。
この発言が『正しい』ことがわかれば「受験勉強が得意でない人は頭が悪い」という風説にミスリードされて自己効力感や自己肯定感を下げてしまうという「人生における重大なミス」を少しは防げるのではないかと思い、受験勉強と研究を対比して考え、その違いを整理していきたいと思います。益学長は研究者だけではなく技術者にもあわせて言及されていますが、ここではわかりやすく研究を受験との対比で取り上げていくことにします。
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受験勉強と研究の違い(1)「問題の存在」
まず、一つ目の大きな違いは解くべき問題が用意されているか否かです。受験においては問題は用意されていて問題自体を自分で作らなければならないということは基本的にはありません。それに対して、研究においては、問題自体を自分で発見して、自分で問いを立てる必要があります。問題がお膳立てされているか、問題を自分で発見し自分で問いを立てるか、これはとてもとても大きな違いであり、それぞれにおいて必要な態度や能力が異なります。受験勉強は得意だけど「自分でテーマを決めて取り組む夏休みの自由研究の宿題」が苦手な子が多いのはこのためです。
筑波大学の永田恭介学長も似たことを述べられています。
受験勉強と研究の違い(2)「エネルギーの源泉」
受験勉強を前に推し進める力は「しなければならない」という力の場合が多いのではないでしょうか。例えば、「将来のために今がんばらなければならない」「みんながんばっているから自分もがんばらなければならない」「やならないと怒られるからやらなければならない」などです。それに対して、研究では「知りたい!」「気になる!」「どうなってるんだー!!」「この状態は許せない!解決したい」などの好奇心や探究心や問題意識がそのままその人の研究テーマとなっていきます。つまり、研究を前に進める原動力はその人の中からあふれる好奇心や探究心や問題意識(これらはその人の人生経験の集大成)であることがほとんどではないでしょうか。
受験勉強と研究の違い(3)「答えの存在」
ペーパー試験の受験では採点が必要になるので答えが存在します。たいていの場合は、その答えは一つに限定されます。また、小論文等の答えが一つに限定されない場合においても模範解答や解答例のようなものは存在します。一方、研究においては、答えがそもそも存在するのかどうかもわかりません。自分が発見した問題に着手したところで答えがそもそもない場合もあります。では、なぜ答えがそもそもあるのかないのかもわからない問題・テーマに取り組もうと思えるのでしょうか?それは、シンプルで、気になるから!・好きだから!・もっとこうなって欲しいから!・今のままが許せないから!などその人の心を起点としたエネルギーが出てくるからです。答えがちゃんと存在することが確約されている問題に取り組むことと、答えの存在すらもわからないことに取り組むこと、この二つは全く違う活動になりますし、そこに求められる姿勢もだいぶ異なってきます。
受験勉強と研究の違い(4)「中心は誰か」
受験では問題も答えも出題者が作成するため受験勉強の中心は出題者となります。受験生がどう思いどう感じようが自分の感覚ではなく、あくまで出題者の意向をくみ取り出題者が求める行動をしていくことが受験勉強の攻略法です。一方、研究においては、自分の中からあふれる問いをつかんで、その問いに対して取り組んでいくことになるので、中心となるのは自分です。自分の頭脳・心・体を信頼し、それをフル活用して前に進んで行きます。
受験勉強と研究の違い(5)「努力量が報われる確率」
基本的に受験勉強という競技は、解法パターンも含めた知識の量をどれだけ持っているかに比例して得点を向上させていくことができる競技です。そのため、努力量(どれだけの量の知識や解法パターンを覚えたか)が増えれば増えるほどその努力が報われる確率は上がります。やればやるだけ報われる。一方、多くのクリエイティブな活動全般がそうですが、研究においては取り組んだ量に比例してアイデアが降りて来たり、発想のブレイクスルーが起ったりはしません。ですので、今日は何時間頑張ったと言う発言自体があまり意味を持ちません。さらに、時代の変容によって取り組んでいた研究に価値がなくなってしまったや、研究を進めていった結果、現時点においては問題に答えが存在しないことがわかった等の不運も影響します。これらのことから、研究は努力量に比例してその努力が報われるとは言えない世界の中にあります。
受験勉強と研究の違い(6)「興味・関心への感度」
受験勉強においては、とにかく多くの攻略法を覚え込んでいくことが大切になるので、自分の興味・関心にはできる限りフタをして時間を節約するのが得策です。例えば、数学においてゴールドバッハ予想のような「人類の未解決問題」に強い興味・関心を持ってしまい数年、数カ月をその問題の証明に没頭してしまうというのは点数には直結しないので全く得策ではありません。また、例えば、社会科で登場する人物にその都度強い興味・関心を持ってしまいその人物が書き残した全書籍を読み漁り勉強会に参加しその人物に対する理解を深めるということも点数には直結しないので全く得策ではありません。これらより、できる限り自分の興味・関心を発動させず、淡々と攻略法を学んでいくことが受験勉強では大切になります。一方、研究においては、この真逆で、とにかく自分の純度100%の興味・関心を大爆発させて突き進むことになります。逆に、自分が興味・関心のない対象を研究するということは不可能です。
受験勉強と研究の違い(7)「上限の存在」
ペーパー試験の受験においては、スコアに上限があります。そのため、数学が100点満点中、平均96点とれていて英語が100点満点中、平均50点なのであれば、数学にこれ以上あまり時間を割くことはせず、英語に注力していくというのが攻略法です。そのため、受験システムにおいては飛びぬけたトガリを持った人材ではなく平均的な人材を量産していくことになります。これはスコアに上限がある以上仕方がありません。一方、研究において、「何でもそつなくこなせます」というのは「何もできません」と同義となります。自分にしかできない研究をとことん突き詰めていくことが必要とされます。そうでなければ生き残れません。教科のスコアで言うならば、国語60点、理科45点、数学389万8750点、社会39点のような状態でしょうか。
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まだまだ他にもあるとは思いますが(それは思いつき次第この記事を更新していきます)、ここまで見てきたように受験勉強と研究はまったく異なる活動であることがわかりました。
ですから、「バレーボールという競技が苦手である」や「けん玉という競技が苦手である」ということで自己効力感や自己肯定感を下げる人があまりいないように、受験勉強という競技は研究者としての資質(一つの頭の良さ)と関係のない、バレーボールやけん玉と同種のある一つの競技であると捉えることができれば、
「受験勉強が得意でない人は頭が悪い」という風説にミスリードされて自己効力感や自己肯定感を下げてしまうという「人生における重大なミス」を少しでも防ぐことができ、もっと生きやすい人が増えるのではないかと思います。そのような人が少しでも増えれば嬉しいです。
もちろん、受験勉強自体が好きであったり、得意であったり、受験勉強に前向きな意義を感じることができて主体的に取り組んでいる人は引き続き受験勉強という競技を楽しめばいいと思います。ただ、受験勉強に対する考え方をこじらせて苦しんでいる人も多く見るため、少しでもお役に立てればと思いこの記事を書きました。
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