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昔のnote記事もずっと生きている

noteに雑文を書き始めて3年ちょっと経ちました。

毎日何かしら書いているのでアップした投稿も1100本を超えました。
(この投稿で1146本です)

今日は何を書こうかな、書くことないな、困ったな、
帰宅の通勤電車の中で頭を捻っていると、ふと目についた光景から
アイデアが閃いて一気に書けることもあります。

こんな事書いたらどうだろう?とタイトルだけ列挙してあるリストがあるので、それを眺めながら無理くり1,000文字書いてみたものの、
自分でも薄いなぁ、と思ったり。

映画や舞台を観たりした時はレビューとまでおこがましくてとても言えない小学生の感想文のようなものを書いたり。

ニュースの報道に憤ったり、
リアルな場面での傍若無人な行動に憤慨したりした時に、
(noteはあまり負の感情は書かない方がいいだろうなと思いつつ)
オブラートに包んでもたまに書いたり(実際、包めてないかも)、

やっぱり何かをインプットしたり、見聞きして心が動いたらそれをテーマに書けるものです。

3年近く続けていると日記じゃないけど、ほとんど効果としては日記のようなもの。

noteにはコメント機能があって、
読んでくださった方からたまにコメントをいただきます。

15年以上前、今は風前の灯となったとあるブログサイトでぽちぽち書いていた時は、男性の僕でも辟易するようなスパムコメントの嵐で、
削除するのが大変でしたが(やがて諦めて放置することになりますが)、
noteはそんなことは全くなく、
僕の見えている範囲ではとても穏やかな風が吹いています。
あぁ平和だなぁて。

たまに2年前の投稿記事にコメントが付くことがあって、
そんな事も書いてたっけ、と自分ではすっかり忘れていた投稿に
共感コメントとかいただくと、気恥ずかしいような気持ちになります。
昔の写真を見て「◯◯さんって、XXXだったんですね!」とか言われたような気分というか。
いや、それは今の自分じゃないし、とか。

まぁ容姿の場合は物理的なものですし、あきらかに後退?劣化?していくんですが、こういうnoteに書いた気持ちとか思いというのは、基本的には
そんなに時間が経っても変わらないんですね。

もちろん、10代20代の時の自分と比べると考えとかは随分変わったとは思いますが(それが成長であればいいんですが)、
流石に40、50を過ぎてからの2年前とかは、基本的には何も変わらないです。
そういう意味では、2年前の投稿記事も確かに
「はい、これは自分の書いたものです」
と言えるので、そんな時に
「あぁ、昔に投稿した記事もそれはそれでずっと生きてるんだな」
と思います。

よく本職の作家さんなどで、

「一度発表したテキストはもう自分の手を離れたものなので、読者がそれをどう解釈してもらっても構わない」

なんて言う方を目にすることがありますが、
それはそれで格好いいな、と思ったりもします。
そういう「作品」はもはやそれだけで独立して生まれ落ちた存在として永遠に生き永らえるんですね。

そう考えると、やはり負の感情よりは、ポジティブな感情を残しておきたいし、負の感情もそのまま吐き出すのではなくて、何かの工夫を凝らして創作にまで昇華できればそれは素敵なんだろうな、と思ったりします。

<了>


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