断想:『コメディの限界』の下書き その1
黒歴史を覚悟で言うと、掲題は死に際の拙著のタイトルとしたいわけです。大日本末期文学全集の出版もそれはそれでいいですが、ライフワークとしての「日本の一般社会におけるコメディの存在」という研究テーマがありまして。
その仮説として、うすうす勘付いているのがですね、コメディなんてそもそも一般的には何もチカラなんてないし、場合によっては邪魔者あつかい、あぁそれならまだ相手にされてるだけマシであって、たいがい視界にも入ってないんじゃないかっていうことなんですよ。
簡単に言うと、この世界は冗談がある空間とない空間の住人に分かれているという話です。もちろん国境はそこにはありません。アメリカンジョークも小噺もモンティパイソンもダイアンも全部それらはひっくるめて冗談のある世界の産物。それが存在しないのが冗談のない世界。
なんせしぬ直前に自費出版でもなんでもいいから刻むために綴るのが『コメディの限界』であるとして、そのラフな下書きのアウトラインと言えるかどうかのプロット案のタマゴがこの文章なので、乱文ご容赦願いたい。
とはいえ、これは一晩では書けないので、あまりやらない一時保存ていうのをやる羽目になるな。考えをまとめるために、半ばあまりカタチになっていない状態で文章としてアウトプットするという行為は有効だと考えているんですよ。自分の手元のメモでいいのかもしれないけど、人様に見せることで生まれる緊張感たるや、ですね。
でまずさぁみんなさぁ、日常にコメディってあるぅ?
テレビのバラエティ番組をみるか?ユーチューブでお笑いだとか、コメディ系のコンテンツをみるか?そういうことで構いません。どうなの?いったんここは海外の話を入れてくると複雑になっていくので、日本社会に限定しましょうか。
日常的にインプットとしてコメディに触れている方は必然的にアウトプットをしていると思っています。
それはその方が舞台に立ってネタをやるという意味のアウトプットではありません。ゴイゴイスーってつい口走ってしまうか、いやそれすらも必要ないですね。ゴイゴイスーの存在がわかって、あぁそれってアレだよね、で充分。その場合は頂いたスーを経口摂取して咀嚼して消化していると言えます。あるいはCMソングを口ずさむ、これでもいいかも。で、で、出前館でもいいし、なんならビズリーーーーーチ!でも可(下図左の領域)。
そもそもゴイゴイスーを知らない。そういうパターンもあるでしょう。さてここからが非常に難しいややこしいわけ。
ゴイゴイスーを知らない”非コメディ消費者”の方だとしても、「ゴイゴイスーを知っていますか?」と質問して「いいえ知りません」とやりとりできる場合はまだ接しやすいのです(下図中央の領域)。
厄介(失礼)なのは、「ゴイゴイスーを知っていますか?」という質問すらさせてくれないオーラというか威圧感というか、そういうのを放っている方々なのです。別に権威のある人がすべてそうというわけでなく、またそれはいっぽうでどんな若年層にもそういう人はいると思っています(フィールドワークしないと証明できないけどね)。「あっこいつ、あっち側(コメディのない空間)の住人だな」ってわかるんですよ(下図右の領域)。
いったんこの偏見に満ちた私の見方を提示したところで、きょうは終わりにしておきますか。今後まずは右端の「コメディのある世界の存在を知らない人々」をさらに掘り下げてまいりますよ。
とりあえずこういう切り口での解釈をしているという吐露でした嫌な感じですよね。
(つづく)