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「忘れちゃわないかな」そういって娘は泣いた

(文中の名前は全て仮名です)

卒園まであと1か月をとっくに切った3月。娘はいつも通り毎日元気に園に通っていた。「もうすぐ卒園だね」「小学校は楽しみ?」と聞いても、特にセンチメンタルになる事もはしゃぐ事もなく平常運転だった。娘はバス通園をしており、幼稚園の友達とはほとんど別れてしまうのに、割とあっさりしてるもんだなぁなどと思っていた。

そんなある日の夜。いつも通りなかなか寝付かない元気な娘がすっかり眠りにつき、私が自分の時間を過ごしていた夜中、寝室から小さな泣き声が聞こえてきた。「娘ちゃん、起きちゃったかな?」そう思って寝室に行くと、いつもは大声で泣きわめく娘が、その日はぽろぽろと涙をこぼして静かに泣いていた。

「どうしたの?怖い夢見ちゃった?」と聞くと首をふるふるする。「頭打っちゃった?寒かった?」と声をかけているうちに泣き声は少しづつ大きくなり、娘はとうとう嗚咽をもらし始めた。頭を撫でながら話ができるまで待っていると、しばらくして娘は顔を大きくゆがませしゃくりあげながら「さきちゃんやめいちゃん、小学校にいったら私の事忘れちゃわないかな…」と言った。2人の名前を口にしたら止まらなかったらしく「れおくんも、はるとくんも、りおちゃんも、ななこちゃんも、私の事忘れちゃわないかな」と、泣いて言葉をつまらせながら、次から次へとお友達の名前を口にした。

私は娘がそんな風に思っていたことに気づかなかったのを申し訳なく思うと同時に、娘が「会えなくなっちゃう」じゃなく「忘れちゃわないかな」と言ったことが愛おしくて少し涙が出た。

「大丈夫だよ」と私は言った。「卒園しても同じ市内に住んでるんだし、今までだって園以外でばったり会うこともあったよね。小学校に行っても会えるかもしれないよ」

「いつでも会えるよ」とは言わなかった。夫がいわゆる転勤族のため、娘は引っ越して環境ががらりと変わるという経験をしている。「会える」と「会う」は違うという事を、私は、そしてたぶんぼんやりとではあるが娘も、知っている。小学校に行ったら、また新しい出会い、新しい生活、それぞれの毎日がはじまる。「いつでも会える」なんて言葉は娘に対して誠実ではない。

「大丈夫だよ」まだ泣いている娘にもう一度私は言った。「小学校に行ったら、娘ちゃんはさきちゃんやめいちゃんの事を忘れちゃう?忘れないでしょ。娘ちゃんがお友達の事を忘れないように、お友達も娘ちゃんの事を忘れないよ」娘の泣き声は少し小さくなっていった。

「正直に言うとね、お母さん、こどもの頃のお友達の名前、もうほんの少ししか覚えてないの。顔も、思い出せる子も思い出せない子もいるよ。だから娘ちゃんもお友達も、これから何年も経ったらお名前やお顔は忘れちゃうかもしれない」娘はわたしを見た。

「でもね、お友達と一緒に遊んで楽しかったなって気持ちは覚えてるよ。名前や顔は忘れちゃってても、一緒に過ごしたことは覚えてる。その時のうれしい気持ちとか、悲しい気持ちとか、そういうのは覚えてるし無くならないよ。だから娘ちゃんやお友達が大きくなっても、同じように覚えてると思うよ。安心していいんだよ」

しばらく考えていた娘は「そっか…。そうだね。それに小学校でもみずきくんは一緒だもんね!」と、まだ涙目ではあったものの笑顔を見せ、添い寝をして胸をとんとんしているうちに安心して眠ってしまった。

娘が眠ったあと私は、自分がこんな風にまっすぐに人との別れを悲しんだ事ってあったかな…と考えた。「会えなくなる」より「忘れられてしまう」事が悲しい。そんな風に思う娘をとてもとても愛おしく感じた。

もう少し大きくなれば、今度は「忘れられてしまう」事よりも「忘れてしまう」事が悲しくて涙を流す日が来るのかもしれない。

明日は卒園式。
娘は泣くだろうか。園ではずっと笑っていて、家に帰ったら泣くのだろうか。それとも一日中笑っているだろうか。
あっという間に過ぎ去っていく、ありきたりな日常。忘れてしまう事が大半だろう。でも、次々と新しい記憶が上書きされても、忘れない気持ちだって絶対にある。
願わくば子どもたちが幸せな気持ちをたくさん覚えていられますように。

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