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書評#1「命売ります」三島由紀夫

 三島由紀夫は45歳で余人の誰しも想像のつかない激しい方法で死んでいった。よって私みたいなコモノが本書を「そういう人が書いた本」として読んでしまうのは、仕方ないことではないだろうか。

 三島小説を読むと、私は毎度登場人物のネーミングセンスに打ちひしがれてページをめくる手が止まり、人名を頭の中でローテーションするだけで2,3日過ぎてしまうのはいつものことである。たとえば代表作「金閣寺」で私がもっとも気に入っているのは主人公の初恋の人である有為子(ういこ)で、名まえひとつで有為子という人間ちょうどひとり分の業の深さや彼女の迎える破滅、もっといえば三島本人の諦観的な面倒くささまでも、たっぷりと言い表し得ていると私は思う。

 本作「命売ります」でも人名のセンスは抜群で、服薬自殺に失敗して新聞広告に自分の命の販売広告を出した主人公の名は羽仁男(はにお)である。羽仁男、はにお、ハニオ……表記よりも発音したときにこの名前の頓狂さは天分を発揮する。世を憂いて自殺を決めたのでもない、自分の能力や外見や経済に絶望してそうせざるを得なかったのでもない、”読もうとした新聞の活字がみんなゴキブリになって逃げていったからむしょうに死にたくなった”ようなやつは大体こんな名前だろ、的なノリで軽薄に名づけたかのように一見は見える。そのくせハ、次にニときて読み手の筋肉をだるだるに弛緩させたところで凡庸に男、でしめるだけで、こうも捉えどころのない爬虫類に人はなれるものか。やはりこの命名は計算づくだろうか。そんなことを考えていたらページが進まない。これだからコモノはだらしがない、が、そのくせ、たかが1冊の文庫本を数週間かけてむっつりと読み、単価680円の数百倍たのしんだ私の、消費者としては勝ちである。

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 冒頭で死にそこなった羽仁男は新聞広告をみて集まった客に自分の命を売ろうとするのだが、それはつまり死して屍を拾う者なき危ない仕事を引き受けていくのである。だいぶ終盤に至るまで羽仁男は願いとは裏腹にひたすらにモテまくって感謝されまくって、お金も面白いようにたまってゆく。ほかの三島作品にはまず見られないほど語り口は軽快で、言葉も平易で読みやすい。本作を読んだ誰もがまず口にすることではあるけれど、これがあの「仮面の告白」や「豊饒の海」の三島由紀夫かと変幻に驚かされる。

 最近のエンタメ小説と言えば「半沢直樹」シリーズが人気だけど、抑圧された奴隷的立場から一転、ドラマチックな下剋上を疑似体験できる痛快さが現代人にウケた「半沢」とまさに好対照なのがこの三島流エンタメ「命売ります」だろう。順調だった羽仁男が追い詰められ暗転していくラストを見届け、けっきょく命売りますなんて啖呵きっても人は自分の理想どおりの死に様を演じ切ることなどできず、精一杯みじめに生きていくほかないという、いちばん知りたくなかった真実を再確認して落ち込んじゃうところまでが本作のフルコースである。だから「命売ります」は一見、テンポも良く今の時代観にもマッチしたエンタメであるかもしれないけれど、やはり三島のそれはどこまでも文学的であり小説的なのだ。

 さてお腹がすいてきたのでそろそろこの文章も終わりたいが、最後にやっぱり確かめたいのは三島がつかう比喩の妙味である。私が本作でいちばん痺れた比喩は、羽仁男が吸血女に血を吸われて瀕死になって、入院した先の看護婦のふとももが出てくるシーンで、「白い靴下の付根に白いガータアと、その上の、黄ばんだ田舎の土のような腿の肉が見えた」である。私は田舎の出身なので、こう言われるとちゃんと黄色や赤の火山灰土を想像する。こういうほんのり硫黄が臭うような有機質な表現は、本当に不愉快で不清潔で、とても三島らしいと思わされる。

 45歳で余人の誰しも思いつかない激烈な方法で死んでいった三島が本作を刊行したのは、その死の2年前である。だから私のようなコモノが、三島の激しい劇場型の死をA面として、死に遂げられなかった羽仁男が寄る辺なく生かされる物語をそのあたかもB面みたいにして読んでしまうのは、どうにも仕方のないことではないだろうか。そしてお前はどうせコモノなんだから彼を見習ってそのしみったれたくそ真面目な生活をせいぜい生き切りなさいよ、とまるで叱られているような気持になるのは、どうにも仕方のないことじゃなかろうかと思う。

「命売ります」三島由紀夫1998年ちくま文庫
*参考資料 「21世紀のための三島由紀夫入門」芸術新潮2020年12月号

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今野 茉希
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