「なにを読もうとなにを聞かされようと 自分自身の理性でもって同意したこと以外 なにも信じるな」

「なにを読もうとなにを聞かされようと 自分自身の理性でもって同意したこと以外 なにも信じるな」
/ゴータマ・シッダータ

先日、夫に言われた言葉。

「あなたは、自分の食べたい物、身体が欲している物がわかっているよね。
みんなそうだといいね。」と・・・。

10年以上前に、
「真希は、どうしたいの?」と聞かれ、答えることができなかった。

本当にやりたいことを我慢して、本当に食べたい物も我慢して、気が付いたら、
自分は何がしたいのか?本当に食べたい物が何なのかも、わからなくなっていました。

しかも、そんな当たり前のことを聞いてきた夫に、無性に腹が立ちました。

そんな難しいことを聞いてくる夫に、イライラしました。

わたしの両親も、周りの人は誰一人、聞いては来なかった。

私自身が、わたしに問いかけることもなかった。

どうせ、誰も、わたしの欲しいものを、与えてはくれないし、気にかけてもくれない。

いじけて、諦めていた私が、今さら何を聞いてくるんだと、ザワザワし始めたのです。

ストレスクリアのセッションでも、2つの質問をされて、そのうちの一つを聞かれると
ザワザワします。

これまで、自分が何を感じ、何に喜び、何に怒り、何に哀しみ、何を楽しいと感じるのか?

ずっと、ずっと、向き合わないように生きてきたからです。

私にとって、自分の感情に向き合うことは、ツラいことだったからです。

感情にフタをして、生きてきました。

怒りや哀しみにフタをしてしまうと、喜びや楽しいと感じることにも、鈍感になります。

お師匠さまである、澤谷先生は、「傷はみなくていい。」そう、おっしゃった。

自然にかさぶたが剥がれ落ちていくまで、待てばいい。

ストレスクリアのセッションは、一つ一つ、自分を守っていた殻が、必要がなくなり、自然と
剥がれていく、そんな感じです。

自分の大切にしていた物に、気づいていく。

あたたかくて、優しい時間・・・。

何が欲しいのか?

自分が本当にやりたいことは、何なのか?

それは、やってみなくちゃわからないのです。

私は、今でも、思っていたのと違った、これが欲しいんじゃない!と気づくことが多々あります。

それは、やってみたからわかること。

食べてみたからわかること。

たくさんの経験をして、たくさんの感情を味わう。

それが、「生きる」ということなんじゃないかな?

そういう意味で、私は今、生きている!!!

私が良いと思ったものを、他の誰かは、それを良いと思う必要はない。

私が信じている物も、大切にしていることも、信じる必要もないし、大切に扱われなくていい。

私が良いと思い、信じ、大切に扱えばいい。

誰も、わたしのことを信じなくてもいいし、私も誰のことも、信じなくてもいい。

私は、自分の信じたいものを信じ、それはコロコロと変わったり、変わらなかったりする。

私は、自分の孤独を紛らわすために、人と関わる必要はなくなった。

自分を知り、自分を愛で満たし、それから人の心に触れようと思う。

自分を愛で満たさない限り、待つことはできないから。

相手が、話す気になるまで、わたしは待っていよう。

人の意見を聴ける人は、自分と対話ができる人。

取捨選択ができる人。

気持ちだけを頂いて、却下することもありますが・・・。

ようやく、アドバイスが聴けるくらいの、自己肯定感ができてきたかなあ。

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