教育を考える―子どもは「異」な存在なのか…夫の気付きが素敵だったこと
11/24(木):教育を考える⑧
昨日のお出かけ後、サッカーを見ながら夫とお酒など飲んでしまって、何となく二日酔いっぽい今日…ですが、今日も教育について考えていきましょう。
今日の大村はま先生の言葉は…
私たちの普段の行動を思い起こしてみましょう。
「子どもは分かっていないから…」と、子どもの存在がまるでないもののように振舞ってしまっていないでしょうか。自分にはできないことを棚に上げて子どもに無理難題を求めていないでしょうか。子どもに課すルールを自分の気分次第で変えていないでしょうか。子どもに無意識の軽はずみの嘘をついていないでしょうか。
その無意識の「私は大人だから」「子どもには分からないから」という弛緩した気持ちは子どもの中に大人への不満感や納得できない気持ち、子ども自身の自己肯定感の低さに繋がってしまいます。
子どもは確かにこれからいろいろな言葉を覚え、社会のルールを学んでいく存在ではありますが、それはイコール物事の本質を分かっていない人と言うわけではありません。「言語化できないから分かっていない」と捉えるのは、あまりにも陳腐なのではないかと、私は思います。
私たち夫婦は二人でおしゃべりすることが幸せな時間のひとつなのですが、身近な人たちの子育てを見て「私たちはどう子どもを育てたいか」「こういうかかわり方をどう思うか」という話をよくしています。
私は今までの経験から…そして夫は子育ての理想から…
そんなある日、夫は「目からウロコ!」みたいな顔をして言いました。
「そっか!子どもとのかかわりも人付き合いなんや!子どもって今まで違うものやと思ってた!そら大人も子どもも敬意をもってかかわるのは当たり前や!」
この気付きで、夫は子育てに対して心が軽くなり、子育てへのプレッシャーも少なくなったようでした。それまでの夫は、周りの子育てを見て、「子どもとの付き合いは○○はダメ」「○○な対応をすると子どもはどんな思いがするのか…」と思うあまり、子どもを「特別に配慮しなければならない存在」として特別視してしまっていたのです。
夫がこんな気持ちを抱いた原因はきっと、「子どもだから」と子どもを侮った子育てを見て反論を持った結果、いつの間にか「子どもだから」という同じ土俵に立ってしまっていたことなのだと思います。
それが夫婦で話すうち、「そっか、子どもだろうが大人だろうが約束を守られないことはイヤだし、嫌なことを相手にしないのは相手が何歳であろうが同じではないか。なんで子どもなら対応が変わるものだと思っていたのか」と突然しっくりきたようなのです。
うん!我が夫ながら、めちゃめちゃええ男や!気付きも素敵やし、それを素直に言葉にできて格好付けないのもめちゃくちゃ素敵!
文章に書いてしまうと「そらそうやろう」なんて理解した振りができても…これ、実は難しくないですか?
無意識の「子どもだから」を持ち、「教える者」「拙い者」「未熟な者」と子どもを軽んじてしまうことは少なくないと思います。だって「お父さんは大人やから…」「お前の為を思って教えてる…」なんて顔をする方が大人は楽だし、子どももそれに慣れてくれるから。
でも本来、親は子どもを評価するのではなく、社会(家庭)の一構成員として子どもを見つめて面白がり、敬意と尊敬をもつこと、子どもからも気付かせてもらい学びを受ける…そんな気持ちが大切なのではないでしょうか。
「相手が子どもだから」と考えて「相手に分かる言葉で伝える」という配慮や心配りは大切で優しいこと。だけれど、それは子ども相手でなくとも、相手との関係や職業、話題の方向性によって伝わる言葉を選ぶのは人として至極当然のこと。相手を「子どもだから」と軽んじるのは全く別のことなのだと、自分自身にも戒めとして心にもっていたいと思います。
きっときちんと「一人間同士」として相手を見ていると、子どもたちが見せてくれる世界はとても興味深く、美しいものだと思います。子どもたちに「与えなきゃ!」の強迫観念を捨て、お互いに与えあえる嬉しい関係になりませんか?
いつか私たちが子育てできる日が来るなら…夫婦でこの考えに立ち返って子どもを見る癖をつけていきたいな。そんな風にこっそり夢を見ています。