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「見る」ことの危うさ~『シビル・ウォー アメリカ最後の日』感想(ネタバレあり)〜

(以下、『シビル・ウォー アメリカ最後の日』の感想ですが、物語の核心に迫るようなネタバレがあります。ご注意ください。)


本作の主人公は戦場カメラマンであり、動画ではなく写真で記録するというところがポイントだと思いました。映画という映像のメディアの中で、静止画である写真が出て来ることによって、現実を「切り取っている」感覚がより際立つ仕掛けになっています。

そして今作は、そういった「写真を撮る」行為を描いていくことによって、リアルな戦争描写によって伝わる「暴力性」とは違う種類の「暴力性」、すなわち何かを見たり、記録したりすることが持つ加害性を浮き彫りにしているように感じました。

例えば、人々が殺されていったり、死んでいく様子を写真におさめていくリーたちの姿は、極めて「一方通行」です。カメラのレンズの向こうで、今まさに命の危険にさらされている人を見ても、その事態に関わろうとはせずに、あくまで淡々とシャッターを切り続けます。仕事だから当然と言えば当然なのですが、写真に映る人々が撮られたいと思っているのか、撮られたくないと思っているのかその気持ちと関係なく、とにかく「見たいもの」「見せたいもの」「記録したいもの」をカメラで映していく様は、一方的で冷淡なようにも見えます。

また、カメラマンたちが「何を見て、何を見ないか」「何を記録して、何をなかったことにするか」を判断していく、恣意性も描かれています。劇中、狙撃手に狙われている場面で、リーはふと地面に生えている草花に目を奪われますが、それを写真に撮ることはしません。映画の後半でも、とある人物が血まみれになっている姿を撮影しておきながら、リーはその写真を削除してしまいます。現実に何を体験して何に心を動かされたとしても、結局はカメラを持つ人の気持ち次第で、写真として残されるものが決まってしまうのです。記録からこぼれ落ちたものや忘れ去られたものはそのまま永久に葬り去られ、わかりやすい物語(今作の場合は「戦争の悲惨さ」など)を伝える記録だけが残っていきます。

そして、映画で描かれている「観察者」であることの危うさは、映画を観ている我々にも、そのまま当てはまります。

日々、SNSやニュースで流れて来る数多の写真を、本当の意味で私は「見て」いたんだろうか?
「見たいもの」だけを見て、「見たくないもの」は見ずに、ガザやウクライナの惨状に目を向けてこなかったのではないか?
そもそも、この「映画を観る」という行為もある種の加害性を持っているのではないか?
「アメリカでこんなことが起こったらどうしよう?」と感想を言いながら、世界中で実際に起こっている戦闘を忘れてないか?

映画を観ながら、様々な問いが頭を駆け巡っていきます。

以上のように「見る」という行為の危うさを描いていながらも、一方で、今作は最終的には、報道が持つ力を信じているようにも見えます。特に、エンドクレジット前に徐々に浮かび上がってくる、あの写真。「ファシズムを倒した」という一言では表しきれない、戦争の愚かさや虚しさが伝わってくるようであり、それはまさしく一枚の写真が持つ雄弁さを示していると思います。さらに言えば、こういう写真を撮って人々に届けることこそが報道が果たすべき役割であり、劇中でリーが自分の仕事が役に立っていないのではないかと悩みを吐露することに対して、映画が提示した一つの答えのようにも感じました。

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