ローマ最善皇帝の鬱日記。-愛と諦観の行き着く先-マルクス・アウレリウス『自省録』歴史本Vol.4
もう結構前ですが、自治体の仕事で国の大きな制度改正の余波を受けることになり、長時間労働をしながらあらゆるステークホルダーに文句を言われ続けるという時期がありました。ただの地獄なうえにブルシットジョブですね。笑
周りの人間がすべて敵に見えてくるし、今思うと自分も周囲も精神的に荒んでいましたが・・・そんな時に読んでショックを受けたのが、古代ローマ帝国の五賢帝の一人、マルクス・アウレリウスが書いた『自省録』です。
少し長いですが、とても印象深かった序盤の一節だけ引用します。
これを読んで、私は皇帝という職業のイメージが大きく変わりました。ここにあるのは人間に対する愛と諦観の弁証法。どれだけの苦悩の果てにここにたどり着いたんだろう、と。あとやっぱりパブリックに関わる仕事はいつの時代も大変なんだなと思いました。笑
今回はそんな彼の人生、時代の背景を少し紐解いてみます。
きらびやかさの裏で"ストイック"な思想が流行するローマ
前回記事でも少し触れましたが、ローマという国家は、ヘーゲルも言うようにそもそも文化的に悲壮感を帯びています。
そんなローマで流行った思想が"ストア派"哲学です。このストア派というのは"ストイック"の語源であり、強い自制心のもとで難しい運命に立ち向かおうとした思想です。
思想的に元を辿っていくと、あの"犬のディオゲネス"で有名な犬儒派にもたどり着きます。禁欲的というか行きすぎて世捨て人的だった犬儒派の思想が、もう少しこの時代に合った形に変容していったんですね。
そんな流れもあって、この時代の上流階級の人々はストア派哲学を学んでいました。マルクス・アウレリウス帝もその一人だったのです。
全盛期から守勢に傾くローマ帝国を支える
さて紀元前44年にカエサルが暗殺されると、その親族(姪の息子)だったオクタウィアヌスがローマの内乱を収めて帝政をスタートさせます。
そして紀元96年からは五賢帝と呼ばれる有能な皇帝が次々と現れ、ローマは最大版図のなかで「パクス・ロマーナ」という平和な全盛期を享受することになります。マルクス・アウレリウスはその五賢帝の最期の一人なのです。
皇帝の一族として生まれたマルクス・アウレリウスはきらびやかな宮廷文化を尻目に、学んだストア派哲学を実践しようと質素な生活に務めました。本人は皇帝になることを望んでいなかったようですが、周囲の思惑もあり即位することになります。
当時のローマの皇帝というのは、いわゆる中国の皇帝ほど強大な権力があるわけではありませんでした。元老院はまだ機能しており、皇帝の方も彼らを尊重していました。元老院の命令があれば皇帝自ら戦場へ赴き指揮を取る必要もあったのです。
マルクス・アウレリウスの時代には東方のパルティア(現イラン)との戦争だけでなく、北方のゲルマン人の侵入も激しくなってきていました(マルコマンニ戦争)。特に北方のゲルマン人への対処は困難で、彼の在位期間の中盤以降はほとんどその戦陣の中で過ごすことになります。さらに晩年にはマルクス・アウレリウスが危篤だと思い込んだ将軍の反乱が起こり、すぐ鎮圧されましたが、皇帝はそれにも深く心を痛めたかもしれません。
これらの戦争は多大なる防衛コストをローマに要求し、領土拡張の限界を明らかにするとともに、将来の”ゲルマン人の大移動”による西ローマ帝国の崩壊を示唆するものでもありました。
「子育てだけは失敗」し再びローマは混乱期へ
広大なローマ帝国をよく守り切り、元老院といった難しいステークホルダーとも穏健で良好な関係性を維持したマルクス・アウレリウス。ストア派哲学への造詣の深さとその実践的な態度から、彼の有能さは多くの人物が称えるところです。
ただし、子育てだけは失敗した、とだけは言われてしまいます。というのも彼の後を継いだ息子・コモンドゥス帝は当初こそ父の教えに従い善政を布いていたものの、やがて堕落し、暴政と血の粛清の果てに暗殺されることになりました。そしてこれ以後、ローマ帝国は再び血で血を洗う権力争いが再開することになるのです。
このようにして見ると、マルクス・アウレリウスの皇帝の誘惑と重責に耐える強力な自制心と、そのうえに成り立つ人間性への愛、そして現実的苦悶への諦観、それらがお互い損なわずに昇華された哲学的態度が改めて際立って感じられますね。