深読み:寛容
「円教」というキーワードのことを考えていると、なぜかマルクス・アウレリウスのことが頭に浮かんで、自分でもどうしてかわかりませんでした。
侵略、対立は、古代ローマ人も悩んでいたことであり、円満な状態ではなかったです。パクス・ロマーナ(「ローマによる平和」)と呼ばれる時代でさえも、外交的には、多くの戦争や領土拡大、反乱などがありながらも、内政では平和が維持されていました。どこかの国みたいですね。
ローマの歴史を見ていると、植民地からの移民の受け入れや軍隊への採用、異教の公認など、外部の異質なものを内部に取り入れながら、発展していきました。そうせざるを得なかったのかもしれませんが。
寛容という言葉は、「カエサルの寛容」が有名で、降参した相手を許すという意味です。許した相手にリベンジされる危険性を残すという意味では、勇気のいる行為です。軍人としてはリスキーな行為でありますが、人間としては善き行為かもしれません。
他には、他者を受け入れることを、寛容ということがあります。よくよく考えてみると、異質と考えているのは自分の頭(マインド)であって、それは意識的な線引きかも知れません。ローマの皇帝たちも、本来は、外部の異質なものを取り入れず、純粋培養の状態で政治を行いたかったかもしれません。外部の同質なものを探すとか、異質なものを同質に変化させるのではなく、異質性をほぼそのまま取り込んでいるようにも見えます。そのためには、自分達のスタイルを変えなければなりません。しかし、あそこまで巨大な国になってしまうと、異物にアレルギー反応を示すのではなく、異物に順応するような「寛容」のスタンスが必要だと考えるようになったのでしょう。マルクスアウレニウスのような賢人は特に心得ていました。
そのマルクスアウレニウスは、辺境地に遠征させられ、軍人として任務を全うしながらも、自省録という自分を律する言葉を綴りました。内省することで、寛容というスタンスを悟りました。
欠けるところのない状態である円教。異質なものを受け入れ、より良い状態に発展させる寛容。寛容とは円教に至るプロセスのひとつかもしれません。
「和を持って尊しとなす」。日本の歴史にも色んな考え方が広まって、思想や宗教や倫理と呼ばれるものがありますが、対立がなく円満でストレスのない関係であったり、何かに生命が脅かされない平穏な状態というのは、多くの人が理想としているのではないでしょうか。
理想論かもしれません。内心、そんなことできるんだろうかと思いつつも、こうやってどこの国の偉人たちも悩んできたようなことですから、これからの課題でもありそうです。