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映画評 『敵』|人生は本当に、意外とそんなふうに終わる
文・キミシマフミタカ (2465文字)
いつからだろう、わたし自身が「敵」の存在を意識しはじめたのは? 「敵」は北からやって来る? 日本海のほうから? いや「敵」とはメタファーに過ぎない。それはこの映画の中でも指摘されている。MacBookを開いても、「敵が来るとか言って、皆が逃げはじめています。北の方からと言うことです。北の」というメールは、(まだ)届いていない。だが「敵」はゆっくりとはやって来ない。恐ろしいスピードでやってくる。気がついたら庭にいる、みたいな。その現象には、とてつもない既視感がある。
わたしの父が、亡くなる直前、ホスピスのベッドで、「すごく変な夢を見たんだよ」と話してくれたことがある。「いやー、じつに奇妙な夢だった。白日夢のような」と、ふだんは感情をおもてに出さなかった父が、めずらしく、目を見開くようにして、驚いたように、感情をあらわにして、そう語った。どんな夢だったのか、父は語ったかもしれないが、わたしの記憶にはない。たぶん、夢の内容については語らなかったのかもしれない。でも、「人は死ぬ直前に、とても奇妙な白日夢を見るらしい」という事実は、わたしの脳に強くインプットされた。もしかしたら、父が見たのは、「敵」が北から攻めて来る夢だったのかもしれない、と今思う。
父も、夢を見る人間だったのだ、とあらためて思う。夢を見ない人間などいないかもしれないが、父は、夢など見ない人間だと、どこかで思っていた。思い返すと、父がどのような人であったのか、よく理解していなかった。日記を残すような人ではなかったし、要介護1になった母に父のことを聞いても、もはや「どんな人だったかねぇ……」という、おぼろげな言葉しか返ってこない。もちろん、父についての記憶はたくさんある。けれど、どんな人だったのかと問われると、よくわらない。「敵」という映画を見ながら、わたしは長塚京三が、父に見えて仕方なかった。フランス文学の高名な元教授、という役どころとは、まったく違う人だったが、ベッドの上で白日夢から目覚める、その目は父だった。記憶の中の父の姿を、長塚京三に重ねるようにして、この「敵」という映画を見た。父がどのような人だったのかを、理解したかったのだ。
儀助というのが、主人公の名前だ。筒井康隆のネーミングにはいつも唸らされるが、儀助という名前は、とりわけ素晴らしい。儀助は、後戻りのできない時間軸の中で、老いにじわじわと侵食されながら一人で生きている。モノクロの映像のなか、古い民家の台所に立って、こまごまと料理を作る。焼き網で鮭を焼く、焼豚を切る、ベーコンエッグを作る、蕎麦を茹でる、茄子の煮浸しを作る、レバーの血抜きをする、焼き鳥の串をつくる、鶏鍋をつくる。食卓にぽつねんと一人で座り、もくもくと食材を咀嚼する儀助。キムチを食べ過ぎて下血する儀助。洗面所で歯を磨く儀助。デンタルフロスで丹念に歯の掃除をする儀助。儀助の息遣いが、耳の底に残る。きちょうめんな生活のいちいちは、いったいどこに向かっているのか?
儀助は、エロい妄想の中で生きている。鷹司靖子という教え子だった三十七歳の女性に執心している。原作では「モダンな観音様と言うべき美しさ」と表現されている。夕食を共にして、終電間際になった靖子に、「いっそのこと泊まっていくかい」とかすれ声で言う。飾り気のない白いパンティがフラッシュのように閃いて、儀助は目が覚めて「甘美に夢精」している。「夜間飛行」というバーで出会った甘ったれた仏文科の女子大生、菅井歩美に手玉に取られる。だが、儀助にとって女性たちは「敵」ではなく、味方なのだ。亡き妻が「あなた」と言いながら、裸体で風呂に入ってきて、一緒に浴槽に入って戯れる。それは、夢なのか記憶なのか定かではない。気分のよくなった儀助は、便所の中で出鱈目な歌謡曲を鼻歌まじりで歌う。これは原作にあって映画にはないシーンだが、空虚すぎて幸福な笑いを誘う。
映画の最後の方、儀助が庭の物置から外に出て、「敵」に立ち向かっていくシーンを見たときは、不覚にも泣きそうになった。嗚咽をこらえた。感動的だったのだ。かなわないと知りながらも、なにかの武器を手に、「敵」を倒そうと、決死の形相で立ち向かっていく儀助。父もそうであったらな、と心から願う。父も白日夢のなかで、そのように「敵」と戦って逝ったのだろうか。おそらく、そうだったのだろう。スクリーンに投影されるモノクロ映像を見ながら、天啓のように、そう確信できた。だからこそ、わたしは泣きそうになったのだ。
リアルであることが、ときとして重荷になるときがある。リアルがわたしを押し潰そうとする。誰も頼んでいないのに、リアルは向こうからやって来る。自分自身も、遅かれ早かれ、儀助になる。エロい白日夢はともかく、うつつと夢が交差しながら、ゆったりと流れる大河にかかる靄みたいな中に入っていけたら、それはそれで幸福なんじゃないかと思う。儀助には身寄りがない。天涯孤独だ。そして遺書を書く。ときどき趣味のように遺言書を書き直している。遺書とはなんだろう。死んでしまったら、この世とは、なんの関係もなくなるのに。儀助はなぜか、それでもリアルに追いすがる。それでいて、自ら括れる夢を見る。
若い頃、自分が皺だらけの老人になった夢を見て、ハッと目が覚めて、鏡を見て、それが夢だったと知って安堵する、という体験が何度かあった。ならば、いまの自分が白日夢の中の自分であると、だれが否定できるだろう。わたしの父だった儀助は、やがてわたし自身に重なっていく。わたしは明日から、「敵が来る」というメールが届くのを待つだろう。わたしはすでに白日夢の中にいるのかと思う。この世が現実なのか、白日夢なのか、誰も教えてくれない。「敵」はやはり北からやってくるのだろう。ヘリコプターの音が聞こえ、それが爆音となり、銃声や砲撃の音が飛び交う。光が激しく明滅する。そして静かな雨降りの日、縁側にすわって、春が来るのを待つ。人生は本当に、意外とそんなふうに終わるのだと思う。