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Never end?

職場の人と仕事終わりに飲んでいたら、孤独についての話になった。
酒宴の席のおぼろげな断片的記憶ではあるが、なにか大切なエッセンスを自分が落としたような気がして、シーンを手繰りメモしておく。

仕事の場で?社会で?家庭の中で? つまり、孤独を感じる場所(世界)についての問いだった。

私の返答は確かこうだ。

結局、孤独というのは自分自身をも客観的に一人の人格として疑うということなのだと思う。自分を疑う限り、それはどんな場所でも孤独であり、自分自身を生涯の伴侶にできれば、それから解放されるのだと思うが、それはとてもとても難しいことなのだと思う。と。

ひとは、自分を伴侶にすることができないから、他者を伴侶に求め、それでも埋めることのできない淋しさに、更に他者を求める。緩やかな網目の中で、生きるようにできている。

そんなことを考えてたら、吉野弘の「生命は」という詩を思い出した。

「生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない」

自分の中の欠如も、誰かの中の欠如も、決して消えない。それは、どんなに魂に近づくための言論を通しても、皮膚に触れることを通してもだ。

私はまた飲みの場で、高橋源一郎の、『さよなら クリストファー・ロビン』を紹介していた。

鉄腕アトムをモチーフにした短編の中で、父親が息子を抱きながら、「わたしには、これがほんとうとしか思えない」と吐露する。身体を通して伝わってくる、肉体として嘘をつかない存在の実感と、それにより自分もまたここにいるという真実。しかし、こうも続ける。「けれども、同時に、それを疑っている自分もいるのだ」。

埋まらない欠如、終わらない物語。別れはきっと消失ではなく、まだ続く次章への含みに違いない。

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