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『あるいはまぼろしについて』(早月くら)を読む
くらさんの私家版、まず歌集ではなく詩歌集なのがすごく嬉しかった。
短歌はもちろんのこと、詩歌トライアスロンの連載で、詩や俳句も融合させながら展開されるくらさんの世界観に射抜かれていたので、こうして本として手にとれたことが嬉しい。つくってくださってありがとうございます。
全体を読むと、やっぱり「窓」という印象がいちばんにやってきた。
建物にあるあの窓だけではなく、人と人、人と物、物と物のあいだに存在する境界は、窓のようなものだ。
窓をひらけば雨風がながれこみ、とじれば透明な板の向こうに世界が広がっている。触れようと思えば触れられるけれど、対象を認識しながら遠ざかることもできる。
くらさんの作品特有の透明度や、事物との距離感は、あらゆる「窓」をとおして発見した世界の昇華として紡がれたものだからこそ生まれる魅力なのではないだろうか。
言葉として「窓」が使われている作品もあるし、それ以外も含めて、本全体を通して透明なガラスを行き来するような心地よい静けさが漂っていた。
好きな歌ばかり、というかすべて好きなのだけど、まなざしをとおして読者に世界を手渡してくれるような歌を挙げたい。
山盛りの葉物野菜を崩しつついちばん古い感傷のこと
とりあわせのなんともいえないさびしさと納得感はどこからくるのだろうか。夏の青々とした野菜というよりは、白菜の外側の葉の古びた感じを思い出す。
積まれた野菜たちを崩していけば、容れ物の底にたどりつくはずなのだが、なかなか減っていかないシーンを想像した。
自分のこころに降り積もってきた感情の、もっともむかしの感傷はいつの、どんな場面のことだろう。思い出せるような気がするし、とうてい見当たらないような気もする。
あいまいな「遠さ」の響き合いが、この歌を立たせているように思う。
窓際にひかりを溜めて不在とはまばたくたびに影を見ること
くらさんの「窓」はここにもあらわれる。そしてこの「不在」の把握のしかたが、くらさんだなあと思う。
この世に存在するものは、光が当たればかならず影を落とす。ほんとうはそこにはない影を見てしまう、その一瞬の知覚が、不在そのものを浮き上がらせると読んだ。
窓から射してくるやわらかなひかりと、いまここにはいないだれかの不在が対照的に浮かんできて、それに対峙する主体もしずかにたたずんでいるようである。
栞紐は無いのにゆびを泳がせて世界を手繰りよせてしまった
まるで世界が一冊の本であるかのように錯覚させられる。
指いっぽん、ふっと泳がせるだけで、目の前に広がる景色も、その奥にある時間や背景も、自分のほうに近づいてくるという。「手繰りよせてしまった」の、取り返しのつかない感覚にわたしたちもとりこまれ、しばらくはその世界をただ見ることしかできない。
おそらく世界はすぐに境界を隔てて遠ざかり、かと思えばまた近づいてくるだろう。指をうごかすだけで、わたしたちは何度でも世界を手繰りよせることができるのだ。
『あるいはまぼろしについて』をきっとこれから幾たびも読み返すことになるだろう。その都度、くらさんのまなざしを少しだけ借りて、いろいろな窓の向こうの景色を見るのだ。決して新鮮さの失われることのない体験を楽しみにしつつ、一旦、本を閉じようと思う。
第一歌集もきっといつか出されることを期待しています。