これからの自分らしさは「未来形」になる ~#オン読 6月のまとめ~
テーマの本をオンラインで読みあって考察を重ねあうオンライン読書会「オン読」、6月も終盤なので、まとめてみたいと思います。テーマはこちらの本でした。
Twitterで「#オン読」「#自己紹介」でツイート参加いただいたみなさん、ありがとうございました。いただいたツイートを見ながら、ヨシダの考察も重ねてみたいと思います。
「点」じゃなくて「線」へ。
最初はこのツイートから考えたこと。
面白い視座のツイートをありがとうございます。このツイート、いくつかの前提を示しているなあと思って、それがそもそも面白かったんです。
・いままでの自分らしさはそもそも「求められる」型ありきだった
・そもそも「型」がある、という前提がどうもあるっぽい
・そして「ベスト」っていう概念がある、ようである。
このあたり。テーマの本を通じて改めて自分が思ったこれからの自分らしさはこれらのすべて逆を行くのではないかなと感じたんです。「求められる」「ベストな」「型」とか、なくなるんじゃないかと。そもそも「求められる」ということは相手方に明確な自分(もしくは自分が属している社会的集団や地位、肩書)に対しての期待値があるということ。そしてそれにこたえるのが「ベスト」であり、自ずと「型」化していくっていうことですよね。それ、全部なくなるような気がしたんです。真の意味でダイバーシティが高まって、かつ社会が成熟してそれを受け入れられるようになったら、「人は人それぞれみんな違って」「”あの会社に勤めてる人は、こういう考えを持ちがち”、みたいなクラスタ論は意味をなさなくなり」「ただただシンプルに、”私”にとって”あなた”がどんな存在なのか、でしかなくなる」っていうような。フィンランドで僕はそれを感じたんです。日本の行く末があの国なのかどうかはさておいて、いわゆる社会的なクラスタリングに則って、相手の思い込みをなぞらえて安心させるような自己紹介とか、いらんよねと。だったら名刺渡してはい終了、でいいわけだから。そういう意味では、「本当にする意味のある自己紹介」と「毒にも薬にもならない自己紹介」の二極化がますます進むということかもしれないですね。
もうひとつこのツイートの後半で語っていただいている「短期」「長期」の話も興味深かったです。本の中でも語られていた「未来形」の話とつながると思いますが。
「自分らしさ」には時間軸が存在するという視点。特にそれが顕著になりつつある背景には、「過去が、未来を占ううえで、あんまり参照にならなくなっている」という実態がある。それだけ、世の中の変化のスピードが早くて、自分の能力とか肩書が世の中でどんな意味を成すのかが、不定形でリキッドな感じになってるってことかなあと。だから、「過去」で話すより「未来形=これから起こること・起こそうとしていること」を話したほうが、情報として意味のある記憶のされ方になるってことなんだと思います。ただ、「海賊王に俺はなる!!」みたいな、到達”点”っぽい未来形よりは、「なんでそうなりたいのか」「今、暫定的にやってることはなにか」「その点を手段だとしたときに、本当にかなえたい目的はなにか」みたいな、線とか状態とか背景のほうが大事だってことも併せて意識したほうがよさそうです。点の自己紹介は、変化のスピードにも弱いし、「どっちの点のほうがすげーか」みたいなマウンティング発想になりがちです。自己紹介とは、マウンティングのための行為ではなくて、「一人より、その人と行くほうが、遠くに楽しく行けるかもしれない」可能性を探る行為だと思ってます。なのでなおのこと、点よりは、線。
「自己内省」の時代によりなっていく、かも
こんなツイートもありました。
便利なのやら恐ろしいやら、自分らしさは、自分よりも、AIのほうがわかっている時代が来るっていう仮説。これは結構多くのThought Leaderが実際示唆している未来ですね。ホモ・デウスが一番有名でしょうか。問題は、
「だから自分らしさなんか、自分でうんうん考えずに、テクノロジーに身をゆだねればいいんだ」という舵を切るのか、「だからこそもっと内省をして、自分を自分で理解できるようになることがカギだ」という舵を切るのか。
この論点にあるように思います。が、僕はそもそもこの二つの舵を、『どの意思決定は主舵で、どの意思決定は取舵にするのがいいか』から、自分でわかって判断できるようになることが大事だと思ってます。要するに、「AIにまかせることと、自分で決めたほうがいいこと、それぞれの見極めは、自分で決めたほうがいい」ということかなあと。自分らしさを知るうえで、ツールやテクノロジーを使ったり、他者が自分のことをどう思っているか聞いたりするのは、決して悪いことじゃないと思うんです。言い換えると『インプットに外部軸を使うのはOK』ってことかな。ただ、その逆転の『そもそもテクノロジーが評価している指標に自分を合わせに行っちゃう』とか『他人に喜ばれることだけを指標に自分らしさを当て込みに行っちゃう』といった、『アウトプットが外部軸あわせになってる』状態は、危ないなあと。食べログの点数を参考に自分で選ぶのはいいけど、そもそも食べログの点数が高いものを「おいしい」といえる自分でありたいと思うのは、本末転倒なんだと、そういうことです。自分らしさの主導権を自分から手放してしまったり、そもそも手放しているという状態に自分で気づいていなかったりするのは、「自分らしさ」って言えるんだっけ?と。「この意思決定は自分的にはどうでもいい、効率さえあがればいいことだから、AIに従います」っていう意思決定を自分でしたうえで任せきりにするんならいいんですよ。大事なのはそもそもどの行為において、自分がどっちに舵を切っているのかは、自分で考えるようにしたほうがいいなあと。「考えて、考えない」ならいいけど、「考えないまま、考えない(状態に知らないうちになっている)」のはやばいと。そういう意味では、自分らしさって、自分と他者(テクノロジー含む)の共同作品であることはこれまでもこれからも変わらない大前提で、ただ「他者のバリエーション」や「共同の形」がこれまでの想定を超えて変化していくということなのかもしれない。なので、どんなにそこが変わっていっても変わらない、自分の根源的な欲求とか、何してるとき幸せなのか、みたいなことがわかってるかどうかが、根っこの根っこで一番重要なことなのかもしれないという感じで、いったん考察おしまいにします。
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あー楽しかった!というわけで、こんな感じでオン読これからもやっていきます。7月のテーマは近々に追って。この考察記事を見てさらにコメントしてくれる方も絶賛募集中です。「この本も、より考えるうえでよいですよ!」というオススメもお待ちしております!ではでは!