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「まひる野」9月号特集「歌壇の〈今〉を読む」⑨小池光『サーベルと燕』評

ただ歳月を
滝本賢太郎


  サーベルと燕。魅力的なタイトルの歌集である。著者が七〇代前半の、二〇一八年から二一年に発表した歌を収める。この時期小池は母や弟の死、墓じまいによる故郷との別れを体験する。そのせいか時間、歳月と向き合う歌の多さが目を引く。
  
  氷結の川ひとたびも見しことなし七十年をたちまち生きて
  籠のカナリア逃してしまひしその日より六十余年がひらりと過ぎつ
  たまごからうさぎ孵るとおもひゐし弟よあれから六十年か

 小池はかつて「廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり」と詠った。廃墟美にも似た観念性を伴うこの歌と、現在彼が目の当たりにする歳月はだいぶ違う。右に引いた歌に見られるのは、まばゆさに目を凝らしてようやく見える歳月ではない。肌感覚の歳月であり、たちまちにひらりとよぎってゆく歳月の手ざわりである。それが丁寧に変奏されてゆく。あとがきによれば、小池は短歌と出会ってから五〇年が経ったという。歳月は文学を詠う歌にもよくあらわれている。
  
  腹ごなしのための食後のくすりのむ『門』の宗助がさうしたごとく
  二宮冬鳥の歌に出できし肱川の氾濫をみる夜のテレビに
  「鵲」の字はかささぎと読むことさへも茂吉の歌にわれは知りたり

 文学を詠うといっても、いわゆるブッキッシュな歌とは異なる。食後の胃薬だろうか、そこから漱石の『門』の、おそらくはほとんどの読者が覚えていないシーンを取り出す。この極度の細部への目が、血の通った融合的読書体験として迫る。月日の中で、日常の些細なことも文学と結びつきはじめる。そのとき読書は受動的な体験とはもはや言えないものとなる。日常と読書は混ざり合い、混ざり合うことでさらなる豊穣を生む。このことは特に、一冊を通じて繰り返される茂吉への思い寄せに顕著である。

  哀愁のセブン・イレブンよりわれはたばこ一箱買ひて出で来ぬ
  むささびに生まれかはりしわれはいま縄文杉のこずゑより飛ぶ

 特に惹かれる歌を引いた。哀愁という語をこんなにさらりと使い湿っぽくならないのは、作者が五〇年詠い続けてきたからだろう。初期とも、最初の転換期『日々の思い出』の抒情とも異なり、シンプルにしてソリッドである。二首目では老いの自覚を、歳月が具現化した縄文杉から軽やかに滑空するむささびに託して詠う。自由闊達でおおらかで、しかしなぜだか泣きそうになる。
 サーベルの一振りはその直線的な動きといい速さといい、時の流れに近いものかもしれない。サーベルは振られ、月日は一気に過ぎる。記憶を文字にする文学とは、時への抗いでもある。すべてが瞬時に過ぎ去り、しかし過ぎ去ったと詠うたまゆら、急に翻る。燕が鋭く飛ぶように。一太刀を燕にあざやかに変える魔法。この歌集にわたしが見たのは、そんな試みである。

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