「まひる野」9月号特集「歌壇の〈今〉を読む」⑤水原紫苑歌集『快楽』評
天国泥棒たちへ
富田睦子
第十歌集。第二十一回前川佐美雄賞並びに第五十七回迢空賞受賞。
日常からの飛躍が美的な世界を作る作者の短歌にファンは多い。神話や伝説、文学など大きな物語を下敷きにし、いま生きている現実の世界への抵抗、意志表明をしてきた作者だが、今歌集では読者に時事という文脈を与えたことで魅力が伝わりやすくなっている。
恐怖にまなこみひらきて死にゆける子どもたちある限り神は流血すべし
ふくしまの地震(なゐ)を語らず原發を語らざる春、星はみごもる
一首目は紛争地域の子どもたちだろうか、国内で虐待死する子どもだろうか。この歌集は二〇二〇年から二〇二二年までの作品を収め、コロナ禍と重なる。社会が大きく動揺するとき、弱者がどのような困難に直面するか。時に際して自らを安穏と被害者に置いて悪びれない者には見えない現実を作者は見ている。
木の女、草の女はいづこにて分かるるさやぐ快樂(けらく)さみどり
硝子越しの萩叢に椅子映りけりわが椅子ならず難民の椅子
中世の森のふかきにきのこたち会議せりけり魔女ならぬは誰(た)そ
女性なる唯一の白き麒麟とは明日のあなたころされにけり
消え殘る雪のさびしさ汚れたる白は叫びと白鳥が言ふ
フェミニズムというと別の文脈を持ってきてしまうが、あきらかにこの世における女性として生きる口惜しさ、うすら寒さが表れている。
一首目、「木の女」は大地に根を張ることをゆるされ見上げられ、「草の女」はそうではない、と読んだ。同じさみどりに揺れ、同じように生を喜びながら、自分たち以外のものに区別をつけられてしまう。三首目、「中世」と「魔女」とくれば「魔女狩り」が思い浮かぶ。思い通りにならない女たちは火に焼かれてきたのだ。誰の手も借りず発生し食べられるか食べられないかに分けられるきのこのように。四首目、麒麟は首の長いキリンだろうが、神獣からくる麒麟児というようなものとも重なるだろう。優れた才を持っていても、むしろそれゆえに明日には邪魔にされ殺されてしまう、その不条理。また五首目も無垢である孤独、喉が張り裂けそうな叫びを伝える。
水は常にシャンパングラスにて飲むものとわれにをしへし天國泥棒
「天国泥棒」とは、好き勝手に生きてきた人が老いて死の間際になってから入信し天国に行くことだという。常に高級なクリスタルのグラスできれいな透明な水を飲むことのできる人は人類の何パーセントだろう。それを当然として人に嘯く人はどんな人だろう。しかし、ものが水であるから、私たちだって程度の差こそあれ言われるまで気づかない。「丁寧な生活」を勧めた素敵な人、と読むこともできるだろう。そうやって、自分の特権に無頓着なまま生きている人への、「天国泥棒」は強烈な皮肉でありまた自責であろう。
『快樂』は二〇二二年十二月発行。そしてそこから五カ月後の二〇二三年五月に出された次の歌集の歌集名は『天国泥棒』である。
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