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思考は使用する言語で決まる?!~言語相対性仮説について
言語と思考の関係性における仮説として「言語相対性仮説」というものがあります。
これは「サピア・ウォーフ仮説」とも呼ばれています。
この仮説は、「言語の形式」が「思考の形式」を規定するという言語的決定論を前提とし、外的事象の認知的処理は言語体系によって規定されている、というものです。
つまり、我々の認知機能は、言語に依存しているという仮説なのです。
例えば、イヌイットには日本語の「雪」に対応する言葉がなく、その代わりに、雪の状態を表す言葉が何種類もある、ということが挙げられます。
言語により、我々が「雪」としか認識していない事象の捉え方・認知の仕方が異なる可能性があるのです。
また、虹の色の数などもよく引き合いに出されます。
当該言語が有する「色」という概念の数により、その言語ごとに、虹の色の数が変わってくる可能性があるのです。
日本語において、色という概念の数がもっともっと多ければ、虹は7色ではなく、10色にも20色にもなったかもしれません。
このように、それぞれの言語の体系・構造により、同じものを認知するにしても、全く変わって捉えられてしまう可能性があるというのが、この仮説の面白いところです。
「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)
と言ったのはデカルトですが、ここにも「言語相対性仮説」が妥当するのではないかと思われます。
デカルトのこの言葉の他にも、「その言語においては『主語』を抜かすことができない」という性質を持つ言語があります。
身近な英語もそのひとつです。
英語では、天気を表す場合にも「It is fine today.」と、「形式主語」としての「It」を持ってきます。
このように、主語が欠かせない言語体系の中における事情を考えてみます。
デカルトの先の言葉は、「全てを疑って疑って疑い続けてみたら、全てを疑い得た。しかし、この疑っている自分の存在だけは疑い得なかった」というところから出た結論です。
このように、主語を必須とする言語体系の中で上記のように物事を考えると、例えば英語ならば最終的に主語の「I」が残ります。
つまり、全ては疑い得ても、その疑っている主体である「I(わたし)」の存在は疑い得ない、という結論に落ち着く可能性が高いのです。
この点、主語を特に必須としない日本語で上記の例を考えると、また違ってきますよね。
主語なんてなくても、世界は存在し得るのですから。
このように、日常何気なく使っている母語のことをよく考えてみたら、他言語の文化圏の考え方との相違などが明らかになってきて、異文化理解に繋がるのではないでしょうか。
何より、単純に面白いですよね。
そんな感じで、知らず知らずのうちに母語に思考が規定されているということがままあるのです。
方言なんかでも結構そうですよね。
考えていけば面白い話です。
もし何かで考えが行き詰ったら、一度ご自分が使われている言語から離れて考えてみられたらいいかもしれません。
「言語からの自由」!
如何でしょうか?