民主主義的システムが産み出す正統な鬼子。
『日本精神分析』(柄谷行人、講談社学術文庫)を読んでいます。読みつつ思ったことなどを(極めて不親切な形ではありますが)記してみたいと思います。
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国会とは、官僚が決めた物事を、あたかも国民の意思によって決めたのだと思わせるための機関だとも考えられる。
そもそも普通選挙下における無記名投票においては、自由委任の原則と相まって、「代表」という事態が成立し得ないシステムになっているといえるだろう。
「代表者」は、実際に誰により選ばれたのかを知る術がない。選んだ国民の側も、無記名投票かつ秘密選挙の故に、誰を選んだかその証拠を提出することができない。
真の意味での「代表」というシステムが成立するのは、皮肉にも、制限選挙の下においてでしかない。
現代における国会、自由委任、普通選挙、無記名投票というシステムは、代表という概念を無効化するものであると考えられる。
そうであるならば次に来る事態はどのようなものだろうか?
国民の前で魅力的な演説を打ち、大衆を魅了し、「拍手喝采」で迎えられる人物を、国民は選ぶことになるだろう。
誰が誰を選び、誰が誰に選ばれたのか分からず、それ故、選挙民の意思を国政に反映することが全く期待できない状態に、国民は我慢できなくなる。「拍手喝采」こそが、代表者への揺るぎない法的な信任だとみなされる状態がやって来るはずである。それが独裁国家である。
独裁国家は、皮肉なことに、国会、自由委任、普通選挙、無記名投票という極めて民主主義的なシステムを母体にして発生する仕組みであるといえる。
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僕は政治システムについて考えたいわけではないので、上記の事柄を基にして、自分の関心についての考察を深めたいと思っています。それは、ひとことで言えば「共同体と共同体の間に存在する深淵を超えるための方策」を考えることだと表現できるかもしれません。また「コミュニケーション」の問題といえるかもしれません。非常に断片的な形ではありますが、少しずつここに書いていこうと思っています。
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