五輪開幕で賑わうパリは、何より画家の聖地 ルーヴルやオルセー美術館に世界の至宝
パリでオリンピックが7月26日から8月11日まで開催。その後、パラリンピックが8月28日から9月8日まで開かれる。パリは2004年と2010年に2度訪問しており、14年ぶりに3度目のパリを楽しみたいが、観戦・観光客ラッシュや円安もあり、ここは過去の思い出を綴る。
《ミロのヴィーナス》と《モナ・リザ》に魅了
花の都にとどまらない。ファッションの、グルメの、革命の……など様々な形容で多くの人の感興をそそるパリ。しかし私にとっては一にも二にも芸術の都なのだ。30年有余、アートの仕事に携わってきた私は、バルビゾン展やロダン展に関わり、日本で開催されたルーヴル美術館展やオルセー美術館展など、ほとんど鑑賞してきた。さらにパリをこよなく愛し、1920年代のエコール・ド・パリの仲間入りをした藤田嗣治をはじめ佐伯祐三、荻須高徳らの絵画は、時と場所を代えいくつもの作品を見ている。こうした画家たちの聖地ともいえるパリを訪ね歩いた。
まずは世界有数の歴史と38万点以上のコレクションを誇るルーヴル美術館に2004年6月、初めて一日かけ訪れた。主な入口はあのガラスのピラミッド。美術館へ入る地下広場には三分の一の逆さピラミッドが下がり入場を待つ人でごった返していた。じっくり見るには一週間ぐらいかかりそうだ。日本語の無料パンフレットと持参のガイドブックを頼りに時間との勝負。ともかくお目当ての《ミロのヴィーナス》と《モナ・リザ》だけは見ておきたいと思った。
《ミロのヴィーナス》といえば、60年前の東京オリンピックの1964年に東京・上野の国立西洋美術館に特別出品されている。朝日新聞社が日本政府の公式要請を取り付けて実現したもので、何しろギリシャのミロ島で1820年に発見、フランス大使に買い取られ、ルーヴルの至宝となって初めて門を出たのだった。フランス旅行なんて夢のまた夢の時代だから、大学生の私は約3時間待ちも苦にならなかった。会期中83万人を集め、それまでの記録を大幅に塗り替えた。
目の前にしたヴィーナスは見飽きることはない。両腕が無いがゆえに神秘的な美を感じた。「これまで、これから先も、どれほどの人の心に感動を与え続けるのだろうか。作品を遺せた芸術家もきっと驚愕していることだろう」と想像した。その作者は永遠に不明なのだ。
もう一つの目玉は《モナ・リザ》だ。こちらは《最後の晩餐》を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチの作。見れば見るほど不思議な微笑に、すっかり釘付けになった。とりわけ背後の風景は、油彩のぼかしを究極まで追求したといわれるだけあってその天才的な表現技術は言葉に言い尽くせない。
何かの美術書で、この作品には両端に柱が描かれていたのに、額縁に合わせ切り取られたという説を読んだことがある。しかし名画にはナゾがつきまとうものだ。ルーヴルではノー・フラッシュならば原則的に写真撮影が認められていた。日本の美術館と比べ開放的なのには驚きだ。とはいえ時々フラッシュがたかれ、作品保護の観点からとても気になった。
ミレーらの「バルビゾン派」の作品にいやし
ルーヴルの余韻が残る翌日午後には、セーヌ河畔に立地するオルセー美術館に赴いた。ここでのお目当てはミレーの部屋だ。ルーヴルより規模が小さ
いこともあって配置が分かり易く、二つの開口部のそれぞれ正面に《晩鐘》と《落ち穂拾い》があった。美術の教科書でもなじみの名画がさりげなく手の届くところに飾られているのが不思議な思いがした。
ミレーの農民や田園風景を描いた作品には、素朴ながら気品と崇高さが感じられた。これは作家自身が農家の子として生まれ、土に感謝し黙々と働き続ける農民を尊敬し、何より自然の恵みに畏敬の念を抱いていたからだろう。晩年はパリの南東60キロに広がるフォンテーヌブローの森の美しさにひかれ移り住み、61歳の生涯を閉じている。
ミレーと並んでルソーやコローの絵画も数多く展示されていた。ヴェルサイユ宮殿を華麗に彩る肖像画や宮廷絵画を見た目には、こうした自然美に心がいやされる。彼らはバルビゾン村を理想郷として活動を続け、「バルビゾン派」と称されている。
私は1995年秋から翌年春にかけて兵庫県立近代美術館を皮切りに静岡県立美術館、北九州市立美術館を巡回した「バルビゾンの発見」展を担当していた。もちろん兵庫県美の学芸スタッフが中心になって進めたのだが、私は画家たちが宿泊した「ガンヌの宿」の壁面に落書きが残されていることを知り、その部屋を展覧会場に再現することに力を注いだ。
フランスを訪れる際には、ぜひともバルビゾン村まで足を延ばし、画家たちが憩い、今は美術館となっている「ガンヌの宿」とミレーやルソーの家を確認したいと願っていた。当時の画家たちが目にした風景や画論を戦わせたであろう息吹に触れたいと思ったからだ。しかし日程の上で、予定していた火曜日は定休日とあって断念した。
モネの「睡蓮の池・緑のハーモニー」にも注目した。日本の浮世絵に影響を受け、睡蓮の池の中に太鼓橋の架かる日本風庭園を造り、睡蓮の作品を繰り返し描いた。モネと言えば、代表作の『印象・日の出』(1872年)は、印象派の名前の由来になった。
今年は印象派を祝う年で、印象派150周年を記念して、首都パリを含むイル・ド・フランス地方と、パリの北西に位置するノルマンディー地方にて、3月末から9月までの6ヶ月間に渡り、150以上ものアートイベントが開催されている。
モネ同様に浮世絵に感化されたと伝えられるマネの作品も魅力的。娼婦を描き不評をかこったそうだが、《オランピア》はわずかに付けた首のリボンが裸婦を鮮烈に印象づける。また《笛を吹く少年》は2001年末に、奈良県立美術館の「マネ」展に出品されていた。他のマネの作品に比べ圧倒的な一品だった。背景を無くし黒い輪郭で描かれた少年の姿に、再び出会えた喜びをかみしめた。
オルセーでは、「バルビゾン派」の作品の他にも、名画が多数所蔵されている。ルノアールの《浴女たち》、ゴッホの《自画像》、ゴーギャンの《タヒチの女たち》、セザンヌの《トランプをする人たち》、クールベの《アトリエ》、アングルの《泉》など目白押しだ。
絵画以外にもブールデルの《弓を引くヘラクレス》やマイヨールの《地中海》の彫刻、さらにはロダンの《地獄の門とウゴリーノ》の石膏原型など枚挙にいとまがない。
印象に残る画家らの聖地モンマルトル
「これでもか、これでもか」のルーヴルやオルセーの作品群に感服した。私はこうした名画が生まれたフォンテーヌブローと、もう一カ所現地を散策したいと思っていたのがモンマルトルだった。ユトリロやピカソが愛した街であり、わが日本からも藤田のほか、佐伯や荻須が集い遊学している。
まず出向いたのは丘のふもとにある墓地だ。パリで三番目の大きさといわれる墓地には文豪のゾラやスタンダール、映画監督のトリュフォーらも眠っている。画家ではギュスターヴ・モローやドガ、荻須の墓もある。地図を見ながらゾラやモローの墓を見つけることができたが、荻須の墓は事務所の係員に尋ねても分からずじまいだった。
心残して墓地を去り、ロートレックらが通ったムーランルージュの建物や、佐伯、荻須が何枚も何枚も描いた街角を歩き回った。そしてたどり着いたのがアトリエ洗濯船跡だ。ここはピカソやルノアール、ドガ、セザンヌら巨匠たちがアトリエにしていた建物だったが、1970年の火災で、窓のみを残し焼失してしまった。ピカソはここでキュビズムの名作《アヴィニヨンの娘たち》を描いている。
画家たちが刺激し合い、競ったこの街には、もはや名残をとどめるものはわずかだ。でも私が余韻に浸っているわずか20分間に日本の女子大生二人とOL三人組が訪れてきた。「時間がもっとあれば」との思いがつのることしきりだった。画家たちの聖地、パリはなお色あせていない。
紙数もあって、詳しく紹介できないが、ベルサイユ宮殿も人気のスポットだ。パリ中心部から西へ24キロにある宮殿は、庭園も含めると800ヘクタールという広さを持つ。後に王位を剥奪されたルイ16世や、その王妃マリー・アントワネットら、フランスの歴代国王たちの住まいとなった。富裕の象徴は、今日では博物館としてフランスの歴史を後世に伝える役目を担っていて、宮殿愛は豪華な飾りや、宮廷絵画に目を奪われる。しかしこうした室内装飾にはなじめず、広い庭園の散策に時間を割いた。
年内に公開再開見通しのノートルダム大聖堂
2010年5月の旅は、人気の高い世界遺産の「モン・サン・ミシェルとその湾」(1979年登録)が目的で、その帰路、パリから約80キロ、ノルマンディー地方のセーヌ河のほとりにある「ジヴェルニーのモネの庭」に立ち寄っ
た。モネのことは、オルセー美術館でも触れているが、「水の庭」へ。木々の緑の中、池の周りを巡っていると、太鼓橋がかかっている。池には睡蓮が浮かび、枝垂れ柳が影を落としていた。「睡蓮」の多くの絵はここで生まれたのと想像すると感激をおぼえた。
モネの庭を散策した翌日、パリのコンコルド広場東側の公園の一角にある オランジュリー美術館を訪ねた。1996年に全面改装を終えており、整備された入り口で安全検査を受け入場し荷物を預け日本語の音声ガイドを借り受けたが、どの職員も笑顔での対応には驚いた。
入館してすぐに、お目当てのモネの展示室があった。二つの楕円形の部屋に〈睡蓮〉シリーズが、ぐるり展観できる。《朝》《雲》《柳》など8構図22点の画布は高さ2メートル、直線にして91メートルに及ぶとのことだ。温度・湿度・照明などあらゆる面から絵画のための理想の美術館といえる。モネは76歳の時から手がけ、死後に国に納められたのだ。
パリには2連泊して、ルーヴル美術館を再訪したのをはじめ、象徴する建造物のエッフェル塔をはじめ、ナポレオンによって建てられたエトワール凱旋門や壮麗なオペラ座、コンコルド広場、シャンゼリゼ通り、ナポレオンゆかりの旧陸軍士官学校なども巡った。古い写真となってしまったが、それほど変化が無いとと思えるので、主な撮影写真をまとめて掲載する。
中でも時間を割いて見学したのが、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会のノートルダム大聖堂だった。ゴシック建築を代表する建物であり、「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録されている。外観の美しさだけでなく、内部のバラ窓などの壮大なステンドグラスや彫刻、さらに階段で上れる塔や地下クリプトなど見どころ満載だった。
ところが、2019年4月15日夜(現地時間)に大規模火災が発生し尖塔などを焼失してしまった。日本でも法隆寺金堂の火災があったが、世界的な文化財の惨事に心を痛めた。パリ大司教座聖堂として使用されていたこともあり、関係者の衝撃はいかばかりであったろう。
ただ歴史的に重要な美術品の殆どが無事で、「七つの悲しみの聖母」など、堂内を彩る美しいステンドグラスも割れずに無傷だったのが救いだった。外観や尖塔が落下し大きな穴が開いた内部などの修復が進み、五輪後ではあるが今年12月には一般開放を再開の予定という。壮大な美を誇った大聖堂のよみがえった姿を見留めたい。
2024年の今年は、オリンピック・パラリンピックに加え、印象派誕生150周年を記念する印象派フェスティバル、ノルマンディー上陸作戦80周年、国際フランス語圏サミットなどの国際的なイベントもあって、約1億人の外国人観光客の来訪を見込まれている。
3度目のパリは、喧噪が鎮まってからと待望している。パリは世界屈指の芸術・文化の都として、世界の人々を魅了する。美術館や教会、数々の名建築、美しいセーヌ河畔…、そして画家たちの聖地を再訪し、豊かな時間を過ごしたいものだ。