関係さえあればいい (美しい距離/山崎ナオコーラ)
3年前の冬、「おばあちゃんがもう長くないかも知れない。今のうちに会いに行っといで」と電話が入り、父と予定を合わせて和歌山にある病院へ向かった。
1年ぶりに再会した祖母は顔色が悪く痩せ細っていて、あぁ、この人はもうすぐ死ぬんだと一瞬で分かった。認知症を患った祖母は私の顔も名前も覚えておらず、ベッドに横になったままこちらを見ると「綺麗な髪」とだけ小さく呟いた。嘘になると分かっていながら「また来るからね」と言って病院を出て、帰りの電車で少し泣いた。
2週間後に祖母は死んだ。死に化粧をした祖母は最後に会った時よりずっと顔色がよく、今の方が生きているみたい、とおかしなことを思った。
死は、美しいものではない。
だから死を、特に病気を、美しく描く話が私は好きではない。
この作品は末期癌と診断された妻と、会社に通いながら妻を看病し、看取った夫の物語だ。15年連れ添った妻と夫の関係があまりにも綺麗で、これはちょっとリアリティに欠けるのではないかと思いながら読み進めたが、最後の最後に気づかされた。これは病気の物語ではなく、人と人との距離の物語だ。
夫は妻に初めて出会い、敬語を使わなくなった時に距離が縮まったように感じる。結婚して距離はさらに縮まり、やがて妻が死ぬと離れる。妻が死んでから毎晩、妻の夢を見るようになる。しかしそれも2〜3日に1度になり、週に1度になる。夢の中で、距離が離れていく。
ときどき、「遠くにいる人のことも、心で近くに感じればいい」という類の科白を耳にする。だが、なぜ近くに感じる必要があるのだろう。近いことが素晴らしく、遠いことは悲しいなんて、思い込みかもしれない。今は、離れることを嫌だと感じている。でも、嫌でなくなる時が、いつか来る。そんな予感がする。その予感が流れて来る方向に視線を遣ると、僅かな光がこぼれていた。
夫は妻との距離が離れていくことを決して悲観せず、遠くても、関係さえあればいいと言い切る。濃くても淡くても、近くても遠くても、すべての距離が美しいのだと。
ここでは人と人の距離を隔てるものとして「死」が描かれているが、私はこのラストを読み、「」の中にはあらゆるテーマが当てはまると感じた。
人と人との距離はとても繊細で、予測不能なものだ。
たった一言で近づくこともあれば、一言で離れることもある。いちど離れて10年経ってまた近づくこともあれば、もう二度と会わないだろうと思っていた人と、とんでもない場所で偶然再会することもある。
私もこの主人公のように、すべての距離に希望を見出して生きたいと願った。